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「魂の輝きなくして、生命は終わりを迎えぬ」

灰の雪が降り積もる街に屹立する工場があった。飾られるための人形を造る/創る工場が。そんな工場の一角に人の子や人ならざる者が、『人形』として展示されているとか。

行間を読む刀剣乱舞

備忘録
記憶違い有り

3月某日、東京・渋谷。AiiA 2.5 Theater Tokyo。
ミュージカル『刀剣乱舞』~三百年の子守唄~ 観劇。

2015年初頭に始まったゲーム刀剣乱舞。
ミュージカル『刀剣乱舞』はゲームを原案としたメディアミックス展開の一つであり、最新作:三百年の子守唄で三作目となる。
登場する刀剣男士は石切丸、にっかり青江、千子村正、蜻蛉切、大倶利伽羅、物吉貞宗の六振り。
一回の公演につき、六振りの刀剣男士が登場するのもこのミュージカル『刀剣乱舞』の特徴だ。

あらすじ(公式パンフレットより抜粋)

西暦2205年。「歴史修正主義者」による過去への攻撃が始まった。
歴史の改変を防ぐため、時の政府により「審神者(さにわ)」が過去に遣わされた。
審神者によって励起されたのは、刀剣に宿る付喪神「刀剣男士」。
彼らは歴史を守るための戦いへと身を投じていくのであった。
 
――天文11年12月、三河岡崎城付近。
にっかり青江と大倶利伽羅は、遠征から戻る道中、予期せぬ時間遡行軍の襲撃に遭遇し城内へと向かった。
そこでは松平軍と時間遡行軍との乱戦が繰り広げられていた。
松平家の重臣たちが次々と討ち死にしていく中、瀕死の状態にある松平広忠は、その胸に赤子を抱き守っていた。
 
一方、審神者の命で刀剣男士が集められ、石切丸を隊長に、蜻蛉切、物吉貞宗、千子村正という編成が組まれた。
彼らの赴く地は遠征中のにっかり青江と大倶利伽羅のいる三河岡崎城
そこで彼らを待ち受けていたものとは……

今作の感想を一言でまとめると、「刀剣乱舞らしい」の一言に尽きる。
ゲーム刀剣乱舞において、刀剣男士は戦う使命にある。その中で彼らは私たちプレイヤー/審神者に言葉を残していく。
それは刀剣男士から審神者への投げ掛け、刀剣男士の独白、刀剣男士同士の会話等と形は様々。
プレイヤーとして言葉を受け取る場面と、プレイヤー兼審神者として言葉を受け取る場面が存在する。
刀剣男士から発される言葉には意味があると私は考える。
体を持ち、心を持ち、意志を持つ彼らは、人の想いだったり願いだったり、または逸話だったり伝説だったりと、刀とそれを取り巻く人・物・環境・状況によって構成される。
そんな彼らの口から出た言葉には、彼らを彼らたらしめる要素がたくさん詰まっていると信じたいのだ。
重要なのは言葉だけではない。
ただの物でなくなってしまった彼らは、想いを形にする術を持っている。
それは意志を持って行動することであったり、逆に行動しないことであったり、手法は無限に存在する。
刀剣男士という存在を理解するには、彼らの一挙手一投足に注目しないといけないのだ。これがなかなかに困難を極める。
刀剣乱舞という作品に出会って二年経過するが、私が完全に理解できた刀剣男士は一口もいない。
立ち絵、ボイスから得た情報を元に、彼はどうしてこのような発言をしたのか、なぜこのような刀の構え方をしているのか、どうしてこのような表情を浮かべるのか。
この刀剣男士は刀として●●な経緯があるが、発言はしていない、作り手はどこまでを意識しているのだろうか。
枠から外れすぎた解釈をしていないか。
ゲーム刀剣乱舞で表現されている講釈を思考の起点とできているか。
思考に終わりが無い、考えれば考えるほど目が回りそうになる体験を何度も経験した。
また、刀剣男士同士の会話は刀剣男士を理解する上で良い刺激となる。
刀剣男士の独白は勿論のこと、ゲームの性質上刀剣男士と審神者の会話は彼らが一方的に喋っているという形になる。会話の主導権はほぼ彼らにあるのだ。それが一変するのが同権男士同士の会話だ。
二口以上の刀剣男士が言葉を交わして、心をぶつける。
ゲームシステムで言うところの回想や手合わせが該当する。
会話というのは難しい。相手との距離、それぞれの話し方、リズムがあって会話は作られていく。一方的に話す、喋るでは見えない部分も見えてくる。
刀剣乱舞という作品は面白い。ここにおける面白い、というのはゲーム性の話ではない。限定的な情報の元で、作品に対して理解を深めていく。
刀剣乱舞の中心にいる刀剣男士を理解することは、刀剣乱舞への理解にも自ずと繋がる。
それでは、どうやって限定的な情報から理解を深めるのか。
理解の深め方は人それぞれだ。その中で私が取った方法は上記で散々述べた通り――行間を読むことだ。
※勿論これは、言葉を読んだ上での話である。
今作で私が「刀剣乱舞らしい」と感じたのは、今作が行間を読む必要性を如実に問うてきた作品だと感じたからである。
表現法としての「間」が明らかに用意されていたという感覚を得たのだ。

さて、漸く本題に入る。私は、阿津賀志山異聞も幕末天狼傳も作品として非常に好きで、三作品に対して優劣はないと思っている。
それと同時に優劣と好みは違うし、印象もまた違うとも考えている。
阿津賀志山異聞を経て幕末天狼傳を観劇した時、常に新しいことに挑戦していこうとする作品なんだ、と改めて作り手の熱量を感じた。
それは刀剣乱舞への挑戦だけでなく、2.5次元への挑戦、舞台・ミュージカル作品への挑戦――1つへの挑戦じゃ終わってやらないぞというメッセージを作品から受け取った。それは今作、三百年の子守唄でも同様だった。
三百年の子守唄で強く感じた挑戦は主に三つある。①選ばれた6口の刀剣男士③舞台演出②演者の年齢層だ。
③についてはパンフレットで演者さんたちが口を揃えて仰っているので割愛する。①、②を織り交ぜながら感想を進めたいと思う。
今作で選ばれた刀剣男士は、前作・前々作の面々と比べると原作的繋がりが薄く感じる。薄いというより、断片的な繋がりという表現が近しいか。
共通した繋がりを持つ面子の中に、違う色を持つ刀剣男士を投入していた過去二作と比べると、明らかに異色だった。三作目発表の段階で「どんな話になるんだろう」という期待と不安を抱いたのを今でもよく覚えている。
時間が経てば気持ちも少しは整理できるようになり、「この面子なら徳川についてやるのが妥当だろう」という予感と、それでも「徳川と一口に言ってもどこの時代をやるんだ?」という懸念が強くあった。
複雑な想いを抱きながら、それでも時は止まらずに刻まれ続け、タイトル、メインビジュアル、全キャストと役名が発表、そして観劇当日へと至った。



本格的なネタバレ注意

主人公とキーマン

ミュージカル『刀剣乱舞』は主役を明確に口にしない。
座長、役者の立ち位置、インタビューなどと主役を推測できることは可能であるが、「●●が主人公!」と明言されたことはないように記憶している。
誰か一振りの刀剣男士が主人公なのではなく、全員が主役とも取れるが、個人的には、阿津賀志山異聞は加州清光・幕末天狼傳では蜂須賀虎徹が主人公であるように感じた。
ミュージカル『刀剣乱舞』に登場するのは何も刀剣男士だけではない。
歴史上の人物、刀剣男士と相対する時間遡行軍、声だけの登場となるが彼らの主である審神者なども登場する。ここで注目したいのが歴史上の人物だ。ゲーム刀剣乱舞には歴史上の人物が登場することはない。
しかし、刀剣男士が彼らについて口にすることはある。刀剣男士が見た『歴史上の人物』は存在するのだ。
ミュージカル『刀剣乱舞』では、歴史上の人物の存在がかなり重要になってくる。
キーマンとも呼べる存在が歴史上の人物とそれに寄り添う刀剣男士だ。
阿津賀志山異聞では義経と弁慶-今剣と岩融、幕末天狼傳では新撰組-その刀たちが該当する。
では、今回の三百年の子守唄での主役とキーマンは誰なのか。私は、主人公が石切丸・キーマンが徳川家康、物吉貞宗だと思った。

最初からクライマックス~行間で舞台を読め~

物語は石切丸から始まる。先の任務での出来事を記録しようと紙に綴っているシーンだ。言葉は少なく、動きと表情が先の任務での思い出を語る、そんな一幕。
手記を綴る石切丸の前に大倶利伽羅が現れる。静かに現れ、静かに言葉を並べ、静かに去る。それなのに、刻み込まれる存在感。
冒頭の静けさに、私は今作では演者の言葉、表情・舞台の演出だけでなく、舞台上での行間を読んでいかなければならないと切に感じた。
そして、語り部・石切丸の回想と共に物語の幕が上がった。
そう、石切丸はこの三百年の子守唄において主役であり語り部なのだ。

にっかり青江と大倶利伽羅、動き出す物語

あらすじでもあるように、この二振りが遠征中に行方不明になることから物語は動き出す。流石、脇差と打刀というべきか連携に問題は見られない。
にっかり青江はアクの強い刀剣男士という印象を強く持たれがちであるが、その実、冷静に状況判断ができ、自分の務めを着実に全うできる刀剣男士だ、と私は思っている。
刀剣乱舞における脇差の刀剣男士の立ち位置は主にサポート役。青江もそれから外れることはなく、言葉遊びをしつつも、己のやる事・やれる事をしっかり理解した上で周りの状況を常に見据える。
そして、自分への可能性も常に考え続ける刀剣男士だと私は考える。やる事・やれる事の他にやれそうな事への意識も欠かさないのが彼の美点であると私は受け取っている。
一方の大倶利伽羅は、クールで言葉数が少なく、「慣れ合うつもりはない」という言葉を周りに投げることから、連携に不向きな印象を持ちそうになる。
しかし、彼の中での慣れ合うとは何なのだろうか。この言葉は今作で明確な答えが提示されるわけではない。
ところが、表面上の言葉通りの慣れ合う、という言葉で彼を噛み砕いていくと今作では段々と齟齬が生じていく。これは大倶利伽羅だけに言える話ではなく、今作全体にも言えることだ。
遠征先での任務が終了し、本丸に帰投しようとする二振りは異変に気付く。先に反応したのは大倶利伽羅だったが、驚きつつも確信めいた表情をしていたのは青江だったので、この冷静な観察眼が青江の偵察値が高い所以だったら良いなぁと思い、緊迫感のあるシーンなのにニッコリ笑顔になってしまったことをよく覚えている。
異変が起こっているのは岡崎城。駆けつけた二振りの前に立ちはだかる時間遡行軍と彼らに侵略され、次々と人間が死んでいく松平軍。戦いの最中、「●●殿、討死!」という叫びが城内に響き渡る。
私はゲネプロ動画とナタリーさんのゲネプロ記事を読んでいたので、ここで挙げられた武将の名が何を意味するか分かっていた。後に重要になってくる人物たちなのだが、名乗り上げとは逆のパターンで重要性を示すやり方が、前作・前々作と違って面白いと素直に感じた。彼らの役割上、名乗りを上げて戦って死ぬ演出よりも、斬り捨てられて周りの兵たちが声を上げる演出の方が効果的だと思ったのだ。
駆けつけた二振りも時間遡行軍を斬り捨てて行くが、それでも松平軍の劣勢は変わらない。そんな二振りの前に転がり込んできたのが松平広忠とその腕にいる赤子だった。広忠は青江に赤子を託し、死んでゆく。
赤子を手渡されたときに、見せた青江の表情は困惑そのもので、手に握っていた刀をしまわなかったのは、戦場故か困惑故か。どちらの理由も考えられるが、彼の中で赤子を抱くから刃物である刀をしまわなければならないという選択肢が出てこなかったのかな、と考えるとにっかり青江らしいな、と私は受け止めた。
困惑する青江の表情に嫌そうな感情が乗っていなかったのも、凄く頷けた。それにしても、霊とはいえ幼子を斬ったとゲーム内で言及されている青江に赤子を……。ゲネプロ動画で見た時も思ったが、何とも作為的な演出なのだろうか。こういった演出をしてくるミュージカル『刀剣乱舞』に魅力を感じてしまうのだ。
一方で、赤子を託されて困惑しつつも戦う青江に対して、檄を飛ばす大倶利伽羅。毎回確認できたわけではないが、喋るときに相手の方を見ようとする彼の動きにヒヤリとしつつも、近付いてくる敵への牽制は忘れない。何となくではあったが、過去作での三日月や堀川の動きを彷彿とさせた。ただ彼らは喋ってる相手がいても敵から目を逸らさず刀を突きつけていたので、彼らの鋭さと大倶利伽羅の鋭さは違うんだな、とも思った。大倶利伽羅は言葉ではなく、動きや佇まい、目の動きで静かに語り、戦場でもその静けさは継続され、爆発的に苛烈さを見せる。洗練された・研ぎ澄まされた鋭さというより、隠れた中にある鋭さなのかもしれない。
逃げながら戦う防衛戦も二振りでは限界がある。「先に行け」と言う大倶利伽羅。青江はそんなことできないよ、と返すが、すかさず足手まといだと言い放つ大倶利伽羅。ここで記憶が曖昧なのだが、青江は一度赤子の存在を忘れかけていた気がする。「そいつはどうする」と言われて「あ……」と動きが止まる青江が何とも可愛かった。青江はやる事・やれる事がきっちり分かってそつなくこなす刀剣男士なので、このような様を見ると本当に守備範囲外のことをしているんだなあ~~と思わず笑顔に。(天丼)守備範囲外のことでも嫌な顔をしない青江、とっても素敵。(天丼)
逃げる場所も体力もなく、絶体絶命の危機。そして現れる仲間たち。
千子村正と物吉貞宗が先に二振りと合流した。村正は二振りが行方不明になってから顕現された刀剣男士なので、二振りとは初対面になるが、そんなのお構いなしの村正節。踊るように敵を屠る村正の美しく華やかな姿に思わず見惚れてボーっとした覚えがある。
そして石切丸の登場だ。登場する前から分かる強キャラ演出、安心する青江の表情や他の刀剣男士の様子から、石切丸が頼りにされていることが分かる。
六振りが揃った――ここで前作共通で歌われるミュージカルナンバー『刀剣乱舞』。
個性が光る阿津賀志山メンバー、血気盛んな幕末天浪メンバーとはまた違った刀剣乱舞。
恐らく今後も歌われ続けるこの楽曲を聴く度に、ミュージカル『刀剣乱舞』が好きだー!という気持ちになるのだろう。
さて、ここで冒頭~合流までの戦う様子で、心乱されたことが一つ。大倶利伽羅、衣装をよく整える。特に襟元を触ったり正したりという仕草が多かったのだが、敵と相対しているときにもこの仕草をよくする。伊達の刀と括られることが多い大倶利伽羅だが、同じく括られる刀剣男士に比べて、伊達男っぷりが目立つわけではない。しかし、この仕草を見て私は確信した。「この男、伊達家にあった刀だ――」と。

配置が語る意味

合流した六振りの刀剣男士。石切丸を隊長としたこの部隊に課せられる役割は、時間遡行軍によって変えられた歴史を修正することだ。青江と大倶利伽羅が行方不明になった時、本丸では石切丸が審神者に何かを投げ掛けられている。過酷なものとなる、と告げる審神者に対して、「やらせてくれ」と申し出る石切丸。今回の任務は石切丸が自ら買って出て隊長となったのだ。審神者の策略があったかもしれないが、最終的に『選んだ』のは石切丸だ。
変えられた歴史の修正は容易くない。というかほぼ不可能に近い。そんな彼らに一筋の光が差す。青江と大倶利伽羅に託された赤子である。彼は後に徳川家康となる子だ――。生涯家康に寄り添った物吉が嬉々としてそう言った。戦乱の世に平和をもたらす徳川家康は、この時、歴史を正すための希望、ひいては石切丸の、部隊の希望となったのだ。石切丸は隊員に役割を伝える。家康に仕えた重臣に成り、彼を支えることで、『徳川家康』を育てるのだ。と。時間遡行軍によって殺された人間の代わりを刀剣男士が努める。生半可な覚悟ではできないことであるし、当然簡単なことではない。それでもやろう、やらなければと口にする石切丸。ここでミュージカルナンバーが入るのだが(※曲名:瑠璃色の空?)、歌っていないメンバーと配置に思わず息を呑んだ。上手、中央が曖昧だが確かこんな配置だったはず(下図参照)。

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ミュージカルソングを歌っているのは、石切丸、物吉貞宗、蜻蛉切。青江は三振りを眺めているが、険しいものではない。戸惑いと可能性の天秤を量っている最中だったのかもしれない。問題は下手の二振りだ。
まずは村正。石切丸の提案や物吉に対して笑い、我らは刀なのだと言う。それでも我ら刀剣男士はやらねばならないという流れは進めば進むほど、彼の顔から表情が消える。作中において村正は基本的に妖しく愉快に華やかに笑って踊るような存在であったが、このシーンではそれらが徐々にそして消えていき、そしていつしか完全に消え失せていた。戸惑い、理解不能、拒否という感情がだんだん見えなくなっていったのだ。あの時の彼はまさしく刀で物で非人間だったと感じた。
そして、そんな村正を後ろから見つめる大倶利伽羅。初めは石切丸の提案に渋面を作っていた彼だったが、自分以上に村正の異変に気付いたのか、村正をじっと見つめていた。暫くすると舞台上の壁にもたれ掛かって瞳を瞑っていたのだが、村正を見ている彼の姿が忘れられず、私はただ呆然と彼を見つめるしかなかった。
徳川家康の重臣として、竹千代を、家康を支える。石切丸は自分で服部半蔵の役を買って出た。その瞬間の青江の僅かな動き。一瞬だが、ぴくりと動いた気がしたのだ。今作では、服部半蔵という役割が石切丸を駆り立てることになっていくので、思い返してみるとここの青江の反応はあるべくしてあった反応なのだろうな、と。
そして、物吉は忠臣名高い鳥居元忠、蜻蛉切は元主である本多忠勝、青江は徳川四天王筆頭の酒井忠次の役を背負うことになる。ここで、大倶利伽羅と村正は襲名を拒否する。ただ、任務を放棄するわけではなく、遠くから見ているという。そんな彼ら(というより大倶利伽羅か)に対して石切丸が放つ「若い」という言葉。この言葉の意味が明らかになることはない。
しかし、要所要所で石切丸がなぜこんな発言をしたのか、一考の余地となるシーンがいくつか存在する。

回想の演出法

石切丸とにっかり青江といえば、ゲーム刀剣乱舞での回想『神剣までの道』でのやりとりがやはり目を引く。今作では、既にこの会話がなされたものとして表現されていた。回想を既に踏襲しているということで意識の不変、変化、言葉の意図がよく分かるこの手法は妙手だなと感じた。
「知らなかったんだ」と家康もとい竹千代から赤子のぬくもり(命の温かさ)を知る青江。上手にいてミュージカルナンバーを歌わなかった青江だが、大倶利伽羅や村正と違い、酒井忠次の襲名に対して非を唱えなかった。なぜなのか。その答えを彼が口にすることは無いが、己の可能性を信じたのではないかと私は考えている。
神剣回想でもあるように、彼は成れない自分のこともきちんと考える刀剣男士だ。どうして神剣になれないのか。悩みというより、模索に近いものなのかもしれない。にっかり青江は自分のことをよく知りながらも、未知の自分を模索し続ける刀剣男士だとすると、家康を支えることはただ刀剣男士の使命を全うするという意味だけでなく、何か別の意味もあって、酒井忠次の名を受けたのだと思いたい。例えば、自分が知らなかったぬくもりがどうなっていくのか、自分がどう関わっていけるのか。そう思いながら、家康とともに過ごしていたらいいなあという希望を抱く。

倶利伽羅という刀剣男士

家臣の名を襲名しなかった大倶利伽羅は、戦前に一人の男と出会う。その名を吾兵。農民の出の男だ。戦に怯える男に大倶利伽羅は「帰れ」「お前みたいな奴はすぐ死ぬ」と言う。吾兵にも帰れない理由があり、戦わなければならない理由がある。
では、大倶利伽羅の戦う意味とは何なのだろうか。吾兵は大倶利伽羅に問う。「戦うのが怖くないのか」と。吾兵の問いに対し、分からないと返す大倶利伽羅を見て、彼の『馴れ合うつもりは無い』という言葉を今作ではどのように解釈したのかが何となく想像できた。
この時点で大倶利伽羅は、己が欠けない限り無くならないものしか抱えていないのだ。自己責任、自己完結の究極の形だと私は思う。
戦が始まると、大倶利伽羅は戦場をひとりで駆ける。そして、彼はこの戦場で吾兵の命を救うこととなる。人というものは恐ろしく簡単に縁を結べてしまうことを大倶利伽羅は知りながら、吾兵の命を救ったのだろう。
戦が終わると、大倶利伽羅は何気なく「こんなものか」と口にする。これに反応したのが石切丸だった。
戦で失われた命に敵味方など関係ない。神社に訪れる生きとし生ける人々の願いや想いを一心に受け止めていた石切丸にはどんな命も平等に重く、価値があった。石切丸の中で生命は尊く、重いものであるからこそ、大倶利伽羅の言葉が命を軽んじているように聞こえた。
馴れ合うつもりは無いと襲名を許否した大倶利伽羅を石切丸は「若い」と笑った。
それは心からの笑いではなく、侮蔑に近い印象を受けたが、笑える余裕があった。しかし、今度は受け流せなかった。命が重いことは彼にとって当たり前で、軽んじられることがあってはならないのだ。
しかも自分と同じく命を屠れてしまう刀という存在、刀剣男士という存在が命を軽んじることが許せなかった。だから石切丸は告げる。大倶利伽羅の剣を受けて「軽い」と。
石切丸にとってこの時、大倶利伽羅の剣は確かに軽かったのだ。
松平元康にも子ができる。名を松平信康。幼いながらに信康は武力ではなく、何か他の形で父に貢献できないかと考える。その時出会うのが、農民の出である吾兵という男だ。
畑仕事でぼろぼろになった吾兵の手が信康の心を動かす。戦で家族を失い、力を欲する吾兵と戦の道ではなく別の道を探す信康はここで交わる。
吾兵は再三大倶利伽羅に稽古を付けて欲しいと頼み込むのだが、大倶利伽羅は断り続ける。
しかし、吾兵だけでなく、信康も頭を下げ、稽古を付けて欲しいと言うのだ。これに対する大倶利伽羅の答えは是。跪いて、分かりました、と答えるのだ。
以降、大倶利伽羅は、榊原康政の名を背負うこととなる。(正確に言うと私の中で襲名の場面の記憶が曖昧)歴史上の人物に対して、跪いて、適した言葉を使う大倶利伽羅は、頭の中に厳然として居たので、舞台で拝めるなんて……とワケの分からない感動を覚えたシーンである。(なのに記憶が曖昧)
壊された歴史が少しずつ修正されていく。これに気付かない時間遡行軍ではなかった。元康(家康)や信康の命を狙う時間遡行軍に刃を向けるは、大倶利伽羅。しかし敵の数は多く、捌き切れない。敵の刃が信康へと向かう。大倶利伽羅はその刃に気付くも、敵を振り払えない。絶体絶命のその時、信康の前に立ったのは吾兵だった。信康を庇い、身を貫かれた。信康の腕の中で命の灯が消えていく吾兵。駆けつける他の刀剣男士。自分の胸を掴み、荒く呼吸し、死に行く吾兵から目を逸らす大倶利伽羅。大倶利伽羅の調子が乱れているのは見るも明らかだったが、静かな彼が激しく息を乱している姿は今でも忘れられない。大倶利伽羅の動揺をこうやって表現するのか、と私の胸に深く刻まれた。そして、「だから慣れ合いたくなかった」大倶利伽羅はそう言って、去って行ったのだ。
刀剣男士は人間のように汗を流したり、息を切らしたりしない。ミュージカル『刀剣乱舞』阿津賀志山異聞にて役者が演出家から受けた指示だそうだ。演出家は処女作から最新作まで同じ人物が努めている。であれば、大倶利伽羅の動揺での息切れは意味のある演出なのだろう、と私は判断した。(※今作において、役者のキャパシティ上息切れしているシーンも存在する)
吾兵の死は家康、信康そして刀剣男士に大きな影響を与えた。石切丸は服部半蔵と成ってから、失った命を弔うための墓を作り続けているという。吾兵の墓もまた彼の手によって作られた。吾兵の死後、大倶利伽羅と石切丸は再び刃を交えることになる。一度目の衝突と違い、きっかけとなる言葉などなく、何も言わずに刀を構えるふたりがそこにはいた。大倶利伽羅の剣を受けた石切丸は、「重くなったね」と言うのだ。命を失う重さを知った剣だと、石切丸が暗に言っているような気がした。
さて、実際の所、大倶利伽羅の剣の重さは実際に変化したのだろうか。この重さに対して厳格な答えは存在しないと思う。ただ、石切丸は軽いという印象から重いという印象を抱いた。それは石切丸自身も声に出しているように、石切丸の感覚として間違いはないのだと思う。では、大倶利伽羅本人はどうなのだろうか。これは完全に私の考えであるが、彼の中で命に重い/軽いという概念はないのだと思う。慣れ合うつもりはないと距離を置いた大倶利伽羅が、吾兵と出会い、榊原の名を背負い、吾兵や信康の稽古を付けるようになり、そして目の前で吾兵が死んだ時に、「だから慣れ合いたくなかった」と言うのだ。彼の中で慣れ合うとは誰かを内に入れてしまうことを意味するのではないだろうか。想いも願いも信念もすべて受け止めなくてはならない。大倶利伽羅は自分の死に場所は自分で決めるとゲームで口にする。これは自分のやるべき事とやれる事がきちんと分かっていて、納得しているから出てくる言葉だと私は受け取っている。彼は自分の死に対してもきちんと理解して納得してから死にたいのだ。何にせよ彼には自分の中で理解と納得が必要なのだ。だから、自分のキャパシティがオーバーしてしまうことはやりたくない。自分がやれる事だと理解できないし、やるべき事だと納得できないからだ。自分が自分であることをよく踏まえているからこそ、大倶利伽羅という存在を揺らがせかねない要因を内部に入れ込みたくないのだ。大倶利伽羅は未熟、未完成な存在なのではない。大倶利伽羅は究極の自己完結という形で完成されている存在なのだ。石切丸は、大倶利伽羅の排他的様子を『若い』と表現し、頑なに何も抱え込まずに奮う剣を『軽い』と表現した。石切丸からしてみれば、今回の任務は難しいものかもしれないが、やろうと自ら挑戦したものなのだから、一歩踏み出そうともせず、挑戦もしない大倶利伽羅に対して少しだけ憤りを覚えていたのかもしれない。向き、不向きがあると理解しつつも、感情的な部分は石切丸にもあったのだと思う。あつかしやま異聞にて、加州清光と心を交差させた石切丸だからこそ、心の動きは必ずどのシーンにも埋め込まれていると思いたいのだ。
倶利伽羅にとって、自分を揺らがせかねない要因、それは自分以外の存在だ。しかし、大倶利伽羅は受け入れてしまう。吾兵、家康、信康の存在を。吾兵ひとりなら突っぱねることができた。しかし、家康・信康まで跳ね除けることはできなかった。『徳川家康』を支えることは部隊に与えられた任務で使命だったからだ。やれない事と理解しつつも、やるべき事だと納得してしまったのだ。大倶利伽羅は初めからこの選択の間違いには気付いていたようには思う。いつかその間違いに自分の心が追い立てられることも、分かっていたと思う。「だから慣れ合いたくなかった」心と体を持つと矛盾が生まれると阿津賀志山異聞で加州清光が言った。心というのは面倒だと大倶利伽羅は言った。それでも、心を捨てたいとは言わなかった。大倶利伽羅は分かっているのだ。心も体も捨てることはできない。大倶利伽羅はすべて承知の上であの光景を目にしたのだろうか。分かっていたのに、激しい動悸に胸を押えて苦しんだのだろうか。あのシーンを思い出す度に、彼が未完成な存在だったらあれだけ苦しむことはなかったろうに、と思ってしまう。
吾兵の死後、石切丸は吾兵の墓を作る。青江から石切丸が弔いとしてすべての命の墓を作っていること、青江から見た服部半蔵として名を背負った刀剣男士・石切丸が「すべての戦争を無くすこと」を目指しているのかもしれないと聞かされる。大倶利伽羅は墓の前に立つと、懐から白い花を取り出す。(何の花なんだろう)しかし、その花が供えられる事はなかった。まだその時ではない、平和になった時にまた来ると言うのだ。服部半蔵を名乗るものの目指す地を榊原信康として名を背負う刀剣男士・大倶利伽羅として見てみたくなった、と言っているように思えた。歴史上の人物としての想いではなく、刀剣男士としてだけの想いでもない、『家臣として徳川家康を支える』という任務で生まれた新たな想いだと思った。だから、吾兵の墓に花を添えたのは榊原康政として大倶利伽羅が役割を全うした時だったらいいな、と思った。

石切丸という存在は万能ではない

史実では、家康が太平の世を築く前に起こった出来事がたくさんあった。息子、信康の死もその中の一つだった。吾兵の死を目の当たりにした信康は戦の無意味さを痛感する。衝突する家康と信康。一方で、刀剣男士たちは石切丸が信康をどう扱うのだろうと気に掛けていた。信康の死因は諸説存在し、結局のところよく分かっていないとされているらしい。家康に仕えた本多忠勝を元主とする蜻蛉切や家康に寄り添い続けた物吉貞宗ですらよく分かっていないのだと。それでも、時計の針が止まることはなく、刻一刻と信康の死の時へと進み続ける。
石切丸は言った。信康には死んでもらわなくてはならない、と。信康を手に掛けるのは服部半蔵である自分である、と。物吉貞宗は理由が無くて人が殺せるのかと叫ぶ。それに対する石切丸の答えは、理由が有ろうと無かろうと人の命を奪って良い理由にはならない、だった。石切丸ならそう答えるよなあというのが正直な感想だ。何があろうと人の命を奪って良い理由にはならない、それでも奪わなくてはならない、自分がやるしかない。後述しているが、青江は何となく見抜いていたんだろうと思う。石切丸が服部半蔵を名乗り出たその時から。
石切丸は理由も無く信康を殺すことに異を唱える物吉貞宗に、見込み違いだったかなと言っていた。(気がする)物吉を家康や信康の側に配置させたのは本人の希望もあったが、石切丸だ。石切丸は物吉に『何』を見込んだのか。家康と共にあった刀として、家康の一生を重んじることだったのだろうか。信康を殺さないとは歴史の流れに反してしまう。それは刀剣男士の使命に反すことであり、そして歴史上の人物の生きた証を踏みにじることと同義だ。徳川家康という人物によって運命を定められた物吉貞宗という刀(霊剣)は、何があっても徳川家康の運命を捻じ曲げることはない、と石切丸は思ったのかもしれない。だからこそ、物吉が歴史とは違う別の道を提示したことが石切丸にとっての決意が固まったのかもしれない、と私は思う。石切丸は自分の可能性を信じて隊長の任を受け、この任務に挑んだ。そして、物吉の在り方に期待をした。しかし同時に、物吉が寄り添う人間に己の心ごと寄せてしまう可能性を危惧した。この任務が始まる際、任務の要は物吉にある、と石切丸自身が言った。物吉が揺いでしまうことは任務の失敗を意味すると暗に言っていたのだ。刀剣男士としてだけではなく、服部半蔵として、徳川家康を支える『者』として石切丸は刀を手に取る。徳川信康の命を終わらせるために。分かち合うことはできる、と青江は石切丸を追う。それに続いたのが大倶利伽羅。物吉も刀剣男士として行かなければならない、と駆り立てられ一歩踏み出すと、村正がそれを止めるのだ。(メッチャ心に響くことを言っていたので思い出せないのが悔しい)このようなことは妖刀である自分に任せておけばいいと、村正は言うのだ。そんな村正の隣に立つのは、同じく刀派・村正の蜻蛉切だ。村正はお前だけではない、妖刀伝説をお前一人で背負わせない。蜻蛉切の言葉は流石村正の唯一の理解者と言ったところだった。
石切丸が先陣を駆け、皆がそれに続く。六振りの刀剣男士と六人の家臣が『徳川信康』の命が終わるときを体と心に刻むことになる。父のようにはなれないと、己の命に終わりを与えてくれと信康は告げる。刀を手にした石切丸/服部半蔵は信康に刃を振り下ろす――ことができなかった。阿津賀志山で加州清光と衝突し、戦があまり好きではないと言った彼が、命の重さを知っている彼が、生ける人々の願いや祈りを見てきた彼は、信康を殺すことができなかった。命の重さを知っているだけではない。幼い頃から家康や信康を支えた彼は、ここで命の重さを理解したのかもしれないなと何気なく感じた。しかし、石切丸が信康を殺さなかったことで、歴史が歪もうとしている。そこに現れたのは、時間遡行軍ではなく、検非違使だった。『正しい歴史』を守る存在。歴史修正主義者とも刀剣男士とも違う第三勢力だ。検非違使は時間遡行軍だけでなく、刀剣男士、そして正しい歴史から外れた人間にも襲い掛かる。信康もその標的の一人だった。信康を刺し貫く検非違使に、石切丸は怒りを露にする。いや、あれは怒りだったんだろうか……憎悪、憤怒、何にせよ阿津賀志山異聞から続いた石切丸が見せる初めての感情だったように思えた。

石切丸の手記

家康の死を見届けた一行は、任務を終え、本丸へ戻る。そして物語は冒頭の石切丸へ。手記を手にする石切丸の前に、青江が現れる。石切丸は手記に描いた青江の似顔絵を見せる。その絵を見てひとしきり楽しそうに笑った青江は石切丸に「一緒に笑うことくらいはできる」と言うのだ。任務中、青江は常に石切丸を意識していた。石切丸の心の揺れに一番敏感だったのは、石切丸本人より青江だったように思う。今話せるか、と青江は何度も石切丸への接触を試みるが、そのたびにやんわりと断られていた。隊長だからと言って背負わなくてもよいと青江は思うのだが、それでも石切丸は背負ってしまう。それは石切丸の刀としての在り方に起因するものと青江は分かっていたので、無理をしないようにと配慮するのだが、その配慮が実を結ぶことはなかった。だから青江は一緒に背負うことではなく、共にあることを選んだのだと私は思った。自分のやれる事とやるべき事と自分の可能性をよく吟味した上での選択だとしても、強く美しい選択だと思った。誰かに寄りそうという選択が出てくるのは脇差らしいとも思った。思い返してみると、青江は大倶利伽羅と遠征に向かっている時からそのようなきらいがあったようにも思える。(私の記憶違いでなければ)「君を一人にはできないよ」「君の望む形にしてあげられなくてごめんね」と口にしていた気がする。素敵だな、青江。
石切丸の手記にはまだ絵があった。大倶利伽羅の似顔絵だった。青江は「それを見た大倶利伽羅の顔が目に浮かぶよ」と小さく笑う。そして、青江も石切丸もその場を離れる。手記を残して。ぽつんと残された手記を誰かが手にした――誰かではない、大倶利伽羅だ。ぱらぱらとページを捲ると、あるページで手を止める。きっと自分の絵を見つけたのだろうと、私も恐らく多くの観客が思っただろう。どんな反応をするんだろうと大倶利伽羅をじっと見ると、大倶利伽羅は小さく静かに、それでも確かに笑った。誰に見られることもなく、ひとりで。
石切丸は途中で手記に書き残し、破って捨てた部分があった。それは石切丸が悩みを見せた部分だった。石切丸は手記を書き終える自信がないと言った。彼は恐らく任務すべてを書き記したいのではなく、楽しい思い出を、誰かに読み聞かせたときに子守唄になるような手記にしたかったのだろうと私は受け取った。辛く厳しく難しい任務ではあったが、それだけではなかったと、石切丸は伝えたかったのだ。穏やかな笑い声と柔らかい表情を浮かべて笑う大倶利伽羅を見て、彼にとってもこの任務が苦しいだけのものではなかったのだ、と安堵したのをよく覚えている。

村正ファミリー

これを機に家康の認識を改めたらどうだ、と物吉や蜻蛉切に言われる千子村正。徳川にあだなす妖刀と云われた彼は、今回の任務に対して分かり易く難色を示していた。彼の在り方(物語)が彼をそうさせるのだ。村正の妖刀伝説を良い意味でも悪い意味でも重んじる彼は、これまた良い意味でも悪い意味でも人からも刀からも浮いた。人だとか刀だとか言う以前に『非人間』であると強く感じた。生で人が演じているものに対してここまで、人外な雰囲気を感じたのは初めてだったので、とても驚いたのをよく覚えている。周りから一線引かれる村正は、また村正自身も周りから一線引く傾向がある。その線を超えるのが同じ刀派・村正の蜻蛉切だ。三百年の子守唄で、千子村正は顕現から始まる。華やかで艶やかで妖しい彼、非人間である彼、妖刀である彼――そんな村正の理解者なのが蜻蛉切だと言う。ただ、手を焼くだけではなく、隣に並び立つ存在。村正伝説をお前だけには背負わせない、と村正に告げる蜻蛉切と、蜻蛉切を村正ファミリーと呼ぶ千子村正。刀剣乱舞では同じ刀派の刀剣男士が奇妙な縁で繋がっている。それは人間で言うところの兄弟らしいものなのだが、人間ではない彼らが何をもって血縁・兄弟とするのか。蜻蛉切と村正もまた、奇妙な縁で繋がっている。一見全く正反対なのに、似ている部分を見つけると微笑ましくなってしまう。この二振りをもっと見てみたいなぁと思う反面、彼らは『村正』以上でも以下でもない関係性が美しいのかなぁとも思った。
徳川の人間と必要以上に関わることを避けていた村正だったが、井伊直政を襲名する。彼の中でも心の動きがあったのか、それとも状況が状況だったのか。何事も愉快痛快な素振りを見せる村正だが、それは自分にペースや場の主導権がある時だけで、主導権が自分に無いときは酷く普遍的だ。静けさを嫌うわけではないが、変な間を苦手とするのかな、とも思った。青江とのやり取りが印象的で、場の支配権が誰でも合わせられる青江と対照的だと感じた。
自分にできる事とできない事を理解していて、できない事は己を揺らがせかねないのでなるべく関与したくない。個人的に今作で描かれた千子村正と大倶利伽羅は似ている部分があるのだな、と思った。似ているからと言って同じわけではない。村正も大倶利伽羅も周りを見ることができる刀ではあるが、村正は自分のペースを自分で掴みに行き、主導権を奪取して、自分から周りとの線引きをする。大倶利伽羅は最初に線引きを行って、己と他を分けて遠ざける。やり方が動的・静的ではあるが、似ているなと何となく感じた。直感的に感じ取った部分でもあるので、もう少し深めて生きたい考え方でもある。

LIVE!LIVE!LIVE!

さて、そろそろ何を吐き出して何を吐き出していないか分からなくなってきた。ここで二部について振り返ろうと思う。二部、ライブ、現代の戦い。戦だ戦だ、ペンライトを振れ!
いや~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~最高!!!!!最高だよ~~!!!!一部が2時間弱行われたのもあいまって、あっという間だった。二部オープニング曲で物吉-大倶利伽羅、石切丸-青江、蜻蛉切-村正のパートがあって、成程この組み合わせねとインプットしていたら、ウワ~~~~!!!!大倶利伽羅とにっかり青江のデュエットだ~~~!!!!ウワ~~~~赤と青の組み合わせ~~~信頼できるカラー配置~~~~!!!!こんなの暴力だ!!!!刀ミュの配置センスが今作でも光っていた!イエ~~イ!
衣装は物吉のハットが個人的には凄く良くて……。幕末の時にも味わったイケメン+ハットの組み合わせ。う~~ん顔が良い!
そういえば蜻蛉切のファンサを間近で見たのだが、人を殺す気のファンサだった。蜻蛉切がファンサする。死ぬ。凄い。
二部はもう言語化不能なので、このへんでやめておこう。どうせ同じ話しかしないし、ね!

最後に今作、三百年の子守唄を観劇して六振りの刀剣男士について思ったところを簡潔に。

石切丸

やっぱり主人公。阿津賀志山、真剣乱舞祭を踏まえた石切丸。彼を完成された存在ととらえるか、彼自身も悩みながら進んでいく存在ととらえるか、それは観劇者次第なのだが、私は後者だと良いなと強く思った。彼にも分からないことがあって、できないことがあって、それでもやらなきゃいけない。そんな葛藤が見れて良かった。想像以上に抱え込むタイプなんだなあとも思ったので、加持祈祷はもしかしたらガス抜きの役割もあるのかなと。(不敬)動きのキレが増していて、役者さんの成長をビシバシ感じた。この成長が見れるのも続投キャストならではだなあ、と。今作を見て、非常に阿津賀志山異聞を見返したくなった。うたかたの子守唄って曲があるじゃん?ねえ、石切丸さん。

にっかり青江

『にっかり青江』がそこにいた!脇差ならではのサポートっぷりに加え、彼自身の在り方・考えについても悩みながらも前向きに捉えて進んでいく。この前向きさ・挑戦が彼なりの刀のとしての経験と刀剣男士としての体験の噛み違いを埋めていく手段だったのかなと思った。白装束という独特の衣装を上手く使いこなしていて、美しくカッコよかった。そう、青江はカッコイイんだ!

千子村正

非人間。物事の本質を捉えるのに長けているが、己の本質に忠実な刀剣男士。華やかで美しく妖しく可愛くカッコイイ。顕現ソロステージ、全刀剣男士分見たい。
物であり者であるのが刀剣男士というモノ、と私は言い続けているのだが、それに属さない妖怪に似た何かを持つ刀剣男士も存在すると思っている。膝丸、髭切、小烏丸に感じるものなのだが、千子村正も私にとってその部類なのかなと思った。う~~ん非人間。

蜻蛉切

質朴で誠実、千子村正唯一の理解者。公式の紹介文に負けない漢っぷり! 元主、本多忠勝に対する想い、「あの人が歴史に残らないのは嫌だ」という想い、自分も村正だと妖刀村正を体言しようとする千子村正に告げる想い。いろんな想いがあの体と名前に詰まっているんだなとしみじみ思った。大倶利伽羅に対して「千子村正を知ってほしい」と告げた際に、大倶利伽羅は知る必要はないと遠ざかったが、そこで出た言葉が「任務に関わってくるかもしれない」だったのが上手いな、と個人的に印象深かった。武人だよなぁ。人ではないのだけれど。
二部、人の心臓を何度か止める、すごい。チューできるくらいまで顔を近付けてくる、すごい。チューされてまうで!

物吉貞宗

ダークホース。キーマン・徳川家康に寄り添う刀。彼が何をもって『幸運』『幸せ』というのか。徳川家康がいてこその刀・物吉貞宗がいて、そこから生まれた物語や伝承、逸話が刀剣男士『物吉貞宗』を形作った。それは彼に刻まれた呪いのようなもの(物吉は肯定的に受け止めている)だと私は思っていたのだが、呪いとはまた違う別の何かがあるのかもしれないという可能性に気付かされた。極や修行というゲームシステムが彼に実装された時、彼にもたらされる変化なんてものがあるのか?と常々首を傾げていたのだが、俄然楽しみになったし、私も考えていきたいと思った。

倶利伽羅

ありがとうございました。斬るのはさることながら、足運びにも重きを置いていた殺陣が印象的で大好き。彼の持つ静けさが要所要所で最大限に発揮されていて魅了の嵐。
本当にありがとうございました。ちょうかっこいい……。

今回観劇したのは東京公演。次が大阪公演観劇で三百年の子守唄ラスト観劇となる。次の観劇に備えて綴った感想文だったのだが、まさかこんなに長くなるとは……。まだまだアウトプットし足りない感想が体中に溢れていて、三百年の子守唄をまだまだまだ生で観たいよ!という気持ちがかなり強い。ミュージカル『刀剣乱舞』~三百年の子守唄~を作り上げてくださった皆様、ありがとうございました。生のお芝居は日に日に変化するので、次の公演までにまた進化してるんだろうなぁ、と。次回観劇の私は何を思うのか、非常に楽しみである。
ミュージカル『刀剣乱舞』~三百年の子守唄~ずっとやっててほしい。終わらないで~!(終わってないよ~!)

以上