美少年回転寿司録

消費しなければ生きてはいけない

これは悲劇の物語ではない

 ――悲しい目をしている。
「だから、ひとりにはできなかった」
 骨喰藤四郎のその言葉に、三日月宗近は動きを止める。瞳に浮かび上がる欠けた月は、静かに揺らめいていた。

先日、京都劇場で舞台『刀剣乱舞』悲伝 結び目の不如帰を観劇しました。
この記事は備忘録に近い感想になります。記憶違いもあるかもしれないので、ご注意下さい。

集大成とは

様々な媒体で集大成と謳われた今作、悲伝 結び目の不如帰。
私が『集大成』という文字をはじめに見かけたのは、どこかのネット記事だった気がします。
誇張表現なのかなぁと最初はその言葉に戸惑いを隠せませんでした。
それはそれとして、集大成。その言葉で私が連想したのは物語の終わりでした。
「舞台刀剣乱舞、終わるの!?」
とてもびっくりしたのが昨日のように思い出せます。
観劇した今となっては、集大成という言葉に込められた意味もきちんと受け止めることができました。
刀ステの物語はここで終わるのか、否か。
私は終わらない……終われない!と思っていますが、ある一つの節目は迎えたのかなと思っています。
オープニングもスピーディーかつ重みのあるサウンドで、何かしらの終わりへ向かっている雰囲気を感じました。
虚伝から始まり、虚伝再演・義伝・外伝・ジョ伝と紡がれたこの物語は悲伝という段階までたどり着き、この先どうなっていくのか。

リフレイン

刀ステ……というか脚本・演出をつとめる末満さんの演出でよく用いられるのが「リフレイン」と「スローモーション」だな~と感じています。
どちらも印象的な演出で、私が覚えている限り刀ステ全作品でこの演出は用いられていたと思います。
(違ってたらすみません!)
リフレイン。繰り返しの意味でこの記事では使っています。
刀ステでは作中でのあるシーンがプロローグとして、そして中盤の盛り上がりにもう一度演じられています。
私は今までこの演出方法を歌で言うところの『サビの繰り返し』と捉えていたんですが、
今作で明らかになったことと照らし合わせると、重きに置かれているのはサビではなく『繰り返し』なんだろうなと思いました。
初演から訴えられてきた『繰り返し』
義伝の時に何かしらの媒体で耳にしたのですが、黒甲冑の鶴丸の鎧は日に日に重くなっていたらしい。
刀ステに『同じ』などなく、繰り返し行われるその舞台は確かに演者にとっても、観客にとっても違うものですが、『物語』も少しずつ違っているのかもしれないな~と思いました。
もしかして、と頭の片隅にあることなのですが、大千秋楽ではこれまでと大きく違う物語が紡がれたりするのかな、なんて。

足利義輝

悲伝でキーになる歴史上の人物。
私は司馬遼太郎の描いた彼の印象が強く、足利義輝と言われると死の間際に自身の刀を次々に振るい、戦って亡くなった。死んだ彼の周りには、彼の宝剣が突き刺さっている。そんなイメージです。
原作であるゲーム刀剣乱舞を始める際に観ることができる(今でも観れるんですかね?)映像や三日月が口にする『往時』などは足利義輝の最期のこの奮闘イメージから来ているのだと私は考えています。
今作で衝撃が走ったのは刀ステの三日月宗近足利義輝の最期の時に振るわれなかった刀として、義輝と関わっていくことになることだ。
最も美しいと言われる刀、天下五剣、三日月宗近
今作で紐解かれる三日月宗近という刀、三日月宗近という刀剣男士。
彼は何を想い、何を目指しているのか。

三日月宗近の物語

刀ステの物語で軸になっているのは山姥切国広と三日月宗近だと私は思っています。
その中でも今作は三日月宗近にスポットが当てられた話だと思います。
彼がこれまで臭わせていた『何か』が暴かれる話。
私は刀ステを生で観劇したのは義伝と今作・悲伝のみで、残りはライブビューイングで観ております。
生で観ていないので、すべて生で観劇されている方とはまた違う感想なのかもしれませんが、
初演→再演の三日月宗近の演技を観たとき、衝撃を超えた戸惑いを覚えました。
まったく別人なのです。
台詞や殺陣、衣装など少しずつ手が加えられていても、その根幹は変わらず初演の時に組み立てられた三日月宗近のはずが、初演で観た三日月はそこにいなかった。
何が違ったのか。未だに上手くは掴めていないのですが、一番違ったのは声色と表情だったように思えます。
一言で言ってしまえば、『老い』を感じるそれ。
人間の老いとは少しニュアンスが違う気がしますが、今思えば時間の積み重ねによる『疲労』みたいなものを私は『老い』と感じ取ったのかもしれません。
義伝で三日月は関ヶ原で歴史が繰り返されていることを見抜き、その繰り返しを円環を称した。
このことから、三日月は円環について何かを知っているのだろうな~と思ってはいたんですが、まさか今作でこんなに明らかになるとは!と驚きました。
三日月宗近は歴史を守る存在でありながら、その存在が歴史を狂わせる特異となっている――奴は歴史という糸の結いの目だ」
三日月宗近は歴史を繰り返している。曰く、未来を繋ぐために。
抽象的なその言葉は何を意味しているのか掴み切れない。彼の指す未来とは一体……。
三日月という特異点が本丸にいることにより、敵に本丸の位置が特定され、襲撃を喰らう。
本丸襲撃! どのメディアミックスにもなかった展開だけに緊張と恐怖の興奮を一気に味わいました。
(刀ステ恒例、B級映像に少しくすりともしました)
三日月はなぜか敵と共に姿を消してしまい、それが本丸で波紋を呼ぶことになってしまうのですが、その時の小烏丸の言葉がとても印象的で、忘れられません。
「お前の目に写った三日月宗近は虚ろだったか、三日月宗近に義はなかったか、三日月宗近は如何なる刀であったか」
刀ステは三日月宗近の物語でもあったんだなぁ、と改めて噛み締めるばかりです。

歴史とは、刀とは

すべての結果の上に歴史がある。
ならば、歴史を変えようとすることも、その改変を阻止することも無駄ではないのか。
三日月のこの考えが、彼の指す『未来』を手がかりになるのでしょうか。
そもそも、未来に繋げるとは、という話になるんですが、このニュアンスだと歴史修正主義者との戦いの先に未来などなく……と私は捉えています。
時間遡行軍にも三日月は語り掛けているのを見る限り、戦いが終わらないことを指しているのかな~とも考えているのですが、いまいち自分の中に落ちて来なくて……。
「刀とは何ぞや」
「時代によって刀の在り様は変わる」
「この戦いが終われば、時代は俺たち刀にどんな在り方を求めるんだろうな」
三日月がなぜ義輝の刀なのに、義輝を守ろうとしないのかという叫びに、「あの時、俺は義輝を守る刀だった。だが俺が永禄の変で使われることはなかった。守ろうとしても守ることができなかった」と返した。
この時、三日月からは悲しみだったり、悔しさだったり、遣る瀬無さだったり……そんな感情が垣間見えていた気がします。
今作の三日月は明らかに感情が前に前に出ている気がします。それだけ切羽詰まっているということなのでしょうか。
もしかしたら、ひとりで抱え込んで何かを成そうとしているのは、もうあんな想いをしたくないという心も少しだけ関係しているのかなぁと思いました。
掴み切れなかった三日月宗近の心のかたちが少しだけこの目で捉えることがてきるかもしれないなぁ、なんて。

ほととぎす

サブタイトルからも分かるように、ほととぎすという言葉は悲伝において重要度の高いキーワードの一つですね。
足利義輝の辞世の句にある不如帰は死を、終わりをもたらす鳥として今作では扱われていました。
「お前が俺の不如帰か」
足利義輝は三日月にそう言います。しかし足利義輝の命を終わらせたのは骨喰で。
この構図を思い出すと、私はふと頭にこの言葉が浮かびます。
『結いの目の不如帰』
結いの目を指すのは三日月、ならば不如帰は――。
誰も三日月の不如帰になれなかったのか、三日月自身が三日月の不如帰だったのか、それとも……。

ほととぎす。それは時鳥とも書く。
それはある刀の名前となった。ある歴史で足利義輝の刀たちに寄せられた想いが形になった刀。
刀剣男士とも言うべきそれは、義輝の流した血が咲かせた桜とともに産まれた。
刀剣男士と比べて発する言葉が覚束ないそれはまさに赤子のようで、ある一点のためだけに命を燃やす。
足利義輝を死なせない、ただそれだけのために。
純粋なそれは、狂気すら感じさせる。
この演技、凄いなぁと純粋に感動しました。
「あのみかづき、いらない!」
って言ったときの怖さ……純粋さと狂気は表裏一体……。
赤子ともいうべきそれは刀剣男士と刃を交え、強くなる。刀剣男士のように。
刀剣男士に視認されたそれはキメラをなぞって『鵺』と名を定められる。
鵺は純粋な刀と在り方が違うせいで、いろんなものが少しずつずれている気がします。
刀という単語が上手く発音できていなかったのがとても印象的です。
しかし複数の刀から成り立っている刀剣男士はいます。同田貫だったり、和泉守だったり。
彼と鵺の違いは何なのか――与えられた名前をそれに込められた想いの差なのかなと私は思っています。
実際に、鵺の刀は時鳥と名付けられてから、きちんとした自我を持っているように感じます。
時鳥の殺陣が三日月の殺陣と同じかたちをしているのは、時鳥と不如帰だからか、それとも時鳥は義輝が求める三日月の代わりになりたかったのか、時鳥は三日月の役割を背負った『何か』だったからなのか。
いろいろ考えてしまいます。

鳥の名を冠する刀剣男士

不如帰、時鳥。刀ステには他にも鳥の名前を持った刀剣男士が出てきています。
私が好きな刀剣男士たちということもあり、贔屓目が入っている気はするんですが、鳥の名を冠する刀剣男士の立ち位置が独特だったな~と感じました。

鶴:鶴丸国永
虚伝、義伝に登場
三日月とは違う形で一線引いて皆を見ているけれど、性質故に外から見るのではなく内から見ようとするので気さくに見えるな~と思うのが刀ステでの鶴丸国永の所感です。
常に率先して何事も愉しもうとしている反面、よく周りを見ている。
傍観者になれるけど、ならない。彼は物語を楽しく生きようとしているんだな~と彼の一挙手一投足を見る度に思います。
義伝では三日月が『何か』をしようとしていることに感づいている素振りを見せていたり、今作でも『何か』を成そうとする三日月を見届けようとします。
だから個として三日月を止めることはしない。あくまで個としては。
しかし、刀剣男士としての役目もあり、三日月に剣を向けることも厭わない。
彼の話も見てみたいな~と思いつつ、きっと見ることはなんだろうなぁとも思っています。
彼の役割は一貫して『三日月と山姥切の行く末を見届ける』な気がするのでまたどこかで生き生きと飛ぶ彼を見ることができるんじゃないかな~と期待しています。

鶯:鶯丸
悲伝初登場
私が思い描く鶯丸ってもう少し他に興味のない温度が不明な刀剣男士の印象だったんですが、刀ステは大包平とともにあったせいか彼を見守り、時には茶々を入れて導き、人間味を感じました。
鶯丸も三日月の異変には何とな~く気付いていて、だからと言って何をするでもなく、少しだけ三日月の見る世界に興味を見出していて、
これは鶯丸もまた「刀とは何か」「刀剣男士とは何か」という命題を問い掛けながら生きている刀剣男士の一振りなのかな~と勝手に思いました。

烏:小烏丸
悲伝初登場
異質中の異質な役割を背負う刀剣男士。
本丸に顕現して間もないけれど、それを思わせぬ立ち回り。
かと言って、練度が極まっている動きではなく、上手く立ち回って敵をいなしたり、その力を利用しているような殺陣で感動しました! 流石~……。
今までは三日月が物語の導き手を担っていましたが、悲伝は小烏丸が導き手であった気がします。
この先に訪れることが分かっているような、そんな物言いをする彼でも「刀とは何か」という命題を抱えて生きているのがとても良かったなぁ~と

山姥切の見た『歴史』とその終着点

時空の崩壊とともに、空から歴史が降ってくる。
それに呑まれた山姥切は余多の歴史を目にすることになる。
そして山姥切がたどり着いた先にいたのは白く成りはてた三日月宗近
私はこの三日月を見て、ショックを受けてしまったんですよね。
何だろうな……何だかは分からないんですけど、白くなった三日月を見て『朽ちる』というイメージを持ってしまったからですかね。
最も美しいと言われた刀が朽ち果ててしまった姿があまりに……あまりに……。
山姥切が見た歴史の中で一番近代と思われるのが爆弾による戦争で、
その先は歴史ではなく、何処でもない何処かにたどり着く。
波の音がするなぁ……というのがとても印象的で、さながら歴史という海を漂流した山姥切を想像しました。
これが未来が繋がっていない、ということなのでしょうか。
戦いの先にある戦いのない歴史を三日月は求めているのでしょうか。それはなんというか……。
山姥切国広と三日月宗近は約束を交わす。過去と現在と未来で。
この時に流れている音楽が、あまりに何かを祝福するような、旅出を連想させるような……卒業式に流れてそうな曲なんですよね。出会いと別れの曲というか。とても悲しい気持ちになる曲です。

上手く言葉にならない感情たち

上手く言葉にならないので箇条書きにします
・骨喰と三日月
 三日月がもらったあの言葉、三日月の反応を見るに恐らく繰り返しの中で初めて受けた言葉なのかな~って
 皆を悲しませてしまう三日月が悲しい目をしている……こんなことって……。それでも三日月は止まれないんだなぁ……
・骨喰と大般若
 悲伝で三日月の悲しみを想い続けた骨喰とその横で骨喰を見守り支えた大般若 このふたりは唯一、三日月に刀を向けなかったわけですが、それでも……
・長谷部
 「主ぃ~~~~~~~~~~~~」
 今作、めっちゃ愛おしいというかいや長谷部はいつでも愛おしいんですが、主を第一には考えているんですが、山姥切との関係がさぁ~~ 山姥切が迷っているときにいつも叱咤してくれるのは長谷部で、ヒールぶっ被ってくれんのも長谷部で、この二振りは良い同期って感じだ……
・刀の本分に戻ろうぜ、みっちゃん!
 義伝で太鼓鐘が燭台切に放ったこの言葉 今作でこんなに効いてくると思わんじゃん~~
・歌仙
 歌仙、伊達のこと苦手なんだろうな~と思いつつ、それでも歩み寄る大切さを知っているし、仲間の大切さも知っているし、いろいろ彼なり気を回した今作、最後は伊達のおふざけジョークに巻き込まれてしまったのでまた伊達のこと苦手になったんだろうなと思って笑顔になってしまいました 不器用だよ
・時鳥と長谷部
 エンディングで長谷部は時鳥登場のところをじっと見て、義輝と時鳥が笑顔を交わすときに視線を戻していた気がするんですが、これで私はジョ伝の長谷部と長政を思い出しました

物語が語る故、物語
此度の話は些か物悲しい

刀ステ、ありがとう~!