美少年回転寿司録

消費しなければ生きてはいけない

僕らはみんな、欠けている。

先日、ミュージカル『刀剣乱舞』~結びの響、始まりの音~を観劇しました。
備忘録に近い感想になります。記憶違いもあるかもしれないので、ご注意下さい。


ミュージカル『刀剣乱舞』――刀ミュはトライアル公演や厳島公演、真剣乱舞祭、単騎出陣を除いて今作で五作目になります。
どの公演も単一で楽しめるストーリーでありながら、各公演を観ているとぎゅっと胸が締め付けられる要素も多く散りばめられています。
私は刀ミュの分かりやすいストーリーだからこそできる、舞台上の『生きるお芝居』みたいなものがとても大好きです。
(分かりやすいという言葉は誤解を招くかもしれませんが、決して単調なストーリーという意味ではなく、物語の大筋が理解しやすいという意味で使っております)
しかし、分かりやすいストーリーで舞台を良いものにするには、並々ならぬ様々な力が必要だと思います。
様々な力の中でも私(観客)が一番目に付きやすいは舞台上の『生きるお芝居』です。
これは単純な演技力だけではなく、キャスト同士が織り成す化学反応、演出と箱の相性、音響の効果……などなど様々なものの集大成が形になったものだと思っています。
同じストーリーのお芝居を一定期間繰り返し劇場で行う。
それが舞台というものですが、毎公演同じでありながら、毎公演違う。キャストの演技の仕方だったり、演出だったり、照明だったり、音響だったり……それらを行っているのは全て生きている多くの人間です。
その日の体調、感じ方、箱の雰囲気、観客の様子、それまで積み上げて来たもの、向上心。それらによって舞台は容易く変わります。
その変化を観客が感じるかどうかは観客の受け取り方次第ですが、私は舞台というエンターテイメントは一期一会で、二度と同じものを観ることは不可能であり、それが舞台の醍醐味で、舞台上の『生きるお芝居』だと思っています。
機会に恵まれて、今作は二回観劇することができました。
二回観た刀ミュはやっぱり同じでありながら、違うなと矛盾した感想を抱きました。
一回目に観た時は、好い舞台に。
二回目に観た時は、忘れられない舞台に。
どちらも胸に深く沁み込んだ想いを抱きながら、その想いを忘れないように備忘録として此処に残していきます。

幕末天狼傳を振り返る

今作で出陣する六振りの刀剣男士の中で、過去作に登場したことのある刀剣が大和守、和泉守、堀川、長曽祢の四振り。新たに登場したのが陸奥守、巴形の二振り。
私は幕末天狼傳の刀剣男士メンバーが発表された時、とても驚いたのを今でも覚えています。
阿津賀志山の公演を観ながら、何となく次があるなら幕末の話で新撰組の刀剣+陸奥守なんだろうなと思っていたので、陸奥守で想定していたポジションに蜂須賀がいたので「ええ!?」と目を疑ったのも懐かしい思い出です。
幕末天狼傳は沖田総司近藤勇を中心とした新撰組の歴史を守る話で、テーマが『選ばれる/選ばれない』⇔『選ぶ/選ばない』だったと思っています。
ただの刀という存在ではなく、ましてや人間でもない『刀剣男士』という存在は物として『選ばれる/選ばれない』想いと者として『選ぶ/選ばない』想いの両方を抱き、それに悩み苦しみ葛藤します。
私は幕末天狼傳というお話が大好きで、今でも私の心を掴んで離さないのが近藤勇の終わりです。
長曽祢は物として、近藤勇に選ばれた存在。贋作だろうが真作だろうが、近藤にとって長曽祢は虎徹の一振り。
近藤が長曽祢という刀に寄り添ってくれた分、長曽祢も近藤に寄り添おうとする。
だからこそ、殺さなければならない状況にあったら、終わりをもたらすのも自分であるべきだと信じて疑わない。
この場面で凄く好きなのが新撰組の刀剣男士たちが長曽祢を誰一人として止めないことなんですよね。
長曽祢の気持ちがよく分かるから。自分だったら止められたくないから。自分が長曽祢だったら同じ道を選ぶから。
今作で大和守が「僕たち新撰組の刀は仲が良すぎるのかもしれないね」と言います。
新撰組の刀剣男士たちは近すぎるんですよね。抱く想いも個性も違う、物事に対する感じ方も基本的に違うのに、新撰組のことになると、気持ちが分かってしまう。
元の主たちが同じものを見ていたように、新撰組の刀剣男士たちも無意識に同じものを見ているのかもしれません。
それは美しいことであり、残酷なことだなと思いました。物としても、者としても、刀剣男士としても。
近藤を殺そうとする長曽祢を止めたのは蜂須賀で、彼は「見たくないものは見なくなっていいんだ」と言います。
私はこの蜂須賀の言葉がとても大好きで、この時の長曽祢にとっては救いになったんだろうなあと思っています。
選ばれた長曽祢は、近藤を殺したくないから殺さないという選択肢を選びます。
蜂須賀のその言葉で崩れるように地に伏せる長曽祢を見て、新撰組の刀剣男士はどう思ったのか。幕末天狼傳を観てからずっとそれを考えていました。
近藤を斬ることを決断した長曽祢を見て、和泉守は「悲しいなぁ」と言います。
近藤が長曽祢に首を落としてくれと頼んだ時、堀川は「そんな……」と息を呑みます。しかし、和泉守は「仕方ねぇよ。これが歴史だ」と堀川に言い聞かせます。
和泉守は長曽祢が本心では戦いを望んでいないことを知っています。そんな彼を「強い」と和泉守は評価し、その強さに「悲しい」と名前を付けます。
元の主、土方歳三を重ねて、悲しみを抱えれば抱えるだけ強くなる、と言って。
ここまで分かっておきながら、長曽祢を止めない和泉守を私は凄く、凄く好きなので今作~~!という気持ちでいっぱいです。
結局のところ、蜂須賀が隊長である意味って長曽祢を始めとした新撰組の刀剣男士たちを通して得る『選ばれる/選ばれない』『選ぶ/選ばない』の答えに集約されている気がします。
蜂須賀は近藤の首を斬ることを『選び』、幕末天狼傳という物語に幕を下ろします。
肉を断つあの音と、眩しすぎる白い光の輝きを私はずっと忘れないんだろうなと物語を振り返るたびに感じ入ります。

幕末天狼傳/リバーシ

幕末天狼傳であり、幕末天狼傳ではない。それが今作に対する私の大きな感想です。
近藤、沖田にスポットを当てた幕末天狼傳と違い、今作では土方歳三にスポットが当てられています。
時代は慶応4年。近藤が処刑され、沖田が病死していることから、恐らく慶応4年の6月からの物語に刀剣男士たちは介入します。
歴史の流れという点においては、幕末天狼傳の直後の歴史ということになりますが、彼らが介入する物語が幕末天狼傳で彼らが守った歴史かどうかは知る術がありません。
しかし、新撰組の刀剣男士たちが見ている元主は変わりません。元主へ抱いている想いも。
幕末天狼傳と同じものと違うもの、それぞれが舞台上で描かれていきます。それはストーリーだけではなく、サウンドや照明、演出にまで至ります。
時間遡行軍の狙いは土方歳三土方歳三を殺す事ではなく、生かす事。
時間遡行軍に守られて土方が生き延びてしまうのであれば、刀剣男士は歴史を守るために土方を殺さなくてはならない。
土方が率いる陣営に時間遡行軍が紛れ込んだのを見た和泉守と堀川。和泉守は一瞬でそれを悟ってしまったわけで……予感があったんですかね、いつかこんな日が来るかもしれないと。
和泉守は悩み続け、仲間の誰にも打ち明けず、歴史が事態が進行していきます。
私はこれ幕末天狼傳の長曽祢と一緒じゃん……………と和泉守から目が離せなくなってしまうのですが、一緒じゃなかったですね。
幸か不幸か、刀剣男士は土方歳三と出会うこととなり、和泉守は二度、土方に問いかける。
やらなきゃいけないことなら、やる。多分、和泉守は土方にそう言ってほしかったんでしょうね。
分かり切った答えを、土方に言ってもらいたくて問うたけれど、土方もまた命の使い道を悩んでいた。
――時間は止まることを知らない。
二度目に問いかけた時、土方の迷いは消えていた。それでも和泉守は迷い続ける。
幕末天狼傳で定まっているように見えた和泉守兼定の生き方がここに来て迷いを見せている。
「俺はあんたを殺さなければならない」
それでも、和泉守は土方歳三を斬れない。斬ることを選べなかった、と私は思っている。
涙を流す和泉守に、土方は「それも生き方だ」と笑いかけますが、和泉守の涙にはどんな想いが込められていたのでしょうか。
悲しみ、悔しさ、遣る瀬無さ。きっと様々な感情が織り交ざっていたのだろうと思っています。
私は、近藤を斬らなければならない長曽祢を見て「悲しい」「しかしてそれが歴史の在り方」と称した和泉守が、長曽祢と同じ立場に立って元の主を斬れないという光景がとても大好きで、大好きで、切ないなぁと思いました。
長曽祢は蜂須賀に止められていなければ、恐らく近藤を斬っていたと私は思っています。
けれど、和泉守は自ら手を止めてしまうんですね。やらなければならないと、それが刀剣男士のやるべきことだと分かっているのに、できない。
「俺にはできません」
和泉守の生き方は強く、格好良く、美しく、愛おしくて、切なくて――悲しい。
――銃声が響いた。
土方歳三という命が生から転落し、闇に包まれる。
和泉守の傍に寄る堀川、大和守、長曽祢も和泉守と同じように声を上げて泣いていた。
彼らはきっと、同じものを見ているのだろう。

巴=No story

(パンフレット、対談より抜粋)
今作で出陣する刀剣男士の中で、幕末に縁のない唯一の刀剣男士・巴形薙刀
刀剣男士としても特殊な彼は、従来刀剣男士が抱えている『物語』がないのだと、元主がいないのだと云う。
今作に巴形が出ると知った時、私は少し不安に思ったことがあります。
それは、巴形がただの物語の傍観者になってしまいだろうか、という不安です。
作中でも語られるのですが、新撰組の刀剣男士たちや陸奥守は刀剣男士の中でもエピソード性の強い刀剣男士です。
なので、その誰かにスポットを当てた話をする場合、巴形は置き去りになってしまうのではないかと危惧しておりました。
刀ミュの新作公演で登場する刀剣男士が決まるたびに不安に思うことがあり、自分のことながら毎度毎度のことすぎて一種の形式美みたいになっているのですが、今回もまた杞憂でした!(よかった~)
巴形と相対するのは、時間遡行軍。それも土方歳三の下に潜り込んだ彼らでした。
巴形は作中で時間遡行軍と自分の違いについて考えを巡らせており、彼らを物語無きものの成れの果て、と称します。
自分と近しい存在と認識している巴形はずっと、ずっと彼らを見ていました。
それが顕著に現れているのが宴の場面だと思います。これは二回目に観て気付いたのですが、宴での巴形と時間遡行軍たち、結構同じ動きをしているんですよね。
二度目の観劇だったので、彼らの結末も知っていて、嗚呼……と妙に胸にストンと落ちて来たのをよく覚えています。

時間遡行軍は歴史を変えるために、歴史上の人物に介入する。
それは、過去作でもよく見受けられた方法です。今作はそこに切り込みを入れてきました。
なぜ、他の誰でもなく、土方歳三だったのか。
「お前らの死に場所を見つけてやる」
この一言に尽きると言いますか、ひ、土方さ~~んって感じなんだろうな……時間遡行軍……。
物語無きものの成れの果ては、誰かの物語になりかたった。
それでは、幕末天狼傳で沖田が持っていた菊の紋を示したあの刀は。
阿津賀志山で義経が持っていた太刀は。弁慶が持っていた刀は。
もしかしたら、彼らも誰かの物語になりたかったのかもしれませんね。
土方を守るために殺された彼らは、土方の物語の一部になれたのでしょうか。たとえ、歴史に残らなくても刀剣男士たちがそれを覚えている限り物語になれたと私は思いたいです。
歴史に名を残すもの、残さぬもの。語られるもの、語られぬもの。
皆、物語があって、命を燃やしている。

僕らはみんな、欠けている。

万を持して登場!陸奥守吉行!
幕末天狼傳で蜂須賀が彼の存在を匂わせるようなことを言っていたので、いつか刀ミュでお目にかかりたいなと思っていたのですが、まさか幕末のお話でお目にかかれるとは。
今作は、彼の元主・坂本龍馬が死ぬシーンから始まります。
元の主の死にざまを見て、けろりとした様子の陸奥守に和泉守は難色を示します。心がない、とまで言います。
実際そう思っているわけではなく、そう思いたくないんだろうなと私は受け止めています。
和泉守は、元主のことで苦しみ悩み悲しむ刀剣男士を知っており、自分もそうだから。
陸奥守吉行という刀剣男士は私の中で落とし込むのが難しかった存在です。
見ているのものが大きいというか、見ているものを海のように捉えているのかなと思っています。
なので、些細なことでは動揺しないし、大胆・豪気であれるのかなと。
けれど、その在り方を自分以外に強いる刀剣男士でもないので、気の良い性質に写る。
そんな陸奥守の真ん中にいるのはやっぱり坂本龍馬であり、刀であった頃、彼は坂本の死に直面しています。
彼は坂本に恥じない刀で在る一方で、また坂本の意思を継ごうとしているのかなと思っています。
坂本龍馬のやれなかったこと、見れなかったもの。坂本ならこうしただろうと、彼なりに坂本龍馬という人間をお手本にして刀剣男士として在ろうとしているのかな、と。
それが主への忠誠心と己の野心を内包する陸奥守という刀剣男士だと私は思っています。
極では、それがその二つが上手く溶け込んで最高の刀剣男士のひとりとして修行から帰って来てくれるのですが、ここでは割愛。
今作で陸奥守は刀剣男士たちに坂本への死について何度か問われます。
「涙は枯れた」「覚えてない」「泣いたかもしれないし、泣いてないかもしれない」
彼は誰にも答えを明かしません。特に答えを見付けられていない和泉守には特にぼかしているように感じます。
実際のところ、どうなのでしょうね。
長曽祢や大和守は刀剣男士として元主の死と直面しています。その時の気持ちを彼らはこう語る。
「空虚」「悲しくて辛くてたまらないけど、そのあとに来たのはぽっかり胸に穴が開いたみたいな」
その穴は埋まった?と堀川は不安そうに問いかけるけれど、ふたりは横に首を振るばかりで、その穴が埋まることはなく、今も空いたままなのだと。
陸奥守、お前はいつだって正しいよ」
それでも俺は理解できないし、したくないと言わんばかりに和泉守は言います。
近藤を斬ることになった長曽祢を見て「仕方ない。それが歴史だ」と言った和泉守からこの発言が出るか~!と震えてしまいました。
長曽祢も和泉守も正しさを持つ男だけれども、その正しさに心を寄せられない時、正しさに屈してしまいそうになるんだなあ、と幕末天狼傳と今作を受けて強く思いました。
和泉守にとって、正しさとは強さと酷く似ているけれど、同じではないんだろうなぁ。
正しさはきっと、悲しみの先にあるものだから。
陸奥守も胸にぽっかり穴が開いた刀剣男士のひとりなのだろうと私は思っています。
その穴の形を今作で知ることはできませんでしたが、いつか少しだけでも知れるといいなぁと強く願っています。
どんな形であれ、刀剣男士の胸に空いた穴は歪で美しく、それが彼らの強さであり、心なのだろうなと感じております。
彼らはみんな、欠けている。私はそれを美しいと心から思うばかりです。
美しいものを見た――きっとそれが刀剣男士の魂の在り処なのだろう。

刀ミュ、最高!の気持ち

ここからはバ~~ッと最高だったところを箇条書きにします。余談ですが、今千秋楽が終わりました!
加州清光単騎出陣2018、真剣乱舞祭2018、どちらも目が離せませんね~!
・あの人は駆け抜けるしかねぇからなと土方を見る和泉守と堀川 幕末天狼傳で土方が近藤に「駆け抜けろ」と言われた時に、ふたりは刀を握っていたものね……
・土方に捕縛されても一切怖がらない堀川 土方の言葉をなぞる堀川
・堀川を殴る和泉守 ふたりの絆……
・土方の恰好 加州清光を彷彿とさせる黒の軍服に赤の裏地
・長曽祢と陸奥守のやりとり いや~~~ここ!回想「近藤VS龍馬」→幕末天狼傳→今作の流れが最高!刀ミュでしか見られないふたりのやりとり
・堀川を追いかけるのに頭に血が上ってる和泉守を制する大和守 幕末天狼傳では逆だったのにね~!
・ついに一部でも偉人キャストが歌う ちょっとヘタリアっぽい 上手い
・二部での偉人キャストの歌、返歌・ユメひとつ
・幕末天狼傳に出てた三振りのキャストさんが凄くスキルアップしてる
・長曽祢に恐る恐る近藤の死について聞く和泉守 嫌だったら言わなくていいんだ あ~
・土方に知り合いに顔が似ていると言われてうつむく大和守
・近藤の首を抱える土方 宗教画じゃき……
・宴の時、ニコニコ隣り合う土方と堀川 遠くで土方を見て微笑んでる和泉守
・星を探す土方 天狼星 彼にとって近藤と沖田が天狼星だったのかな
・一回目より二回目、二回目より三回目 観れば観るほど胸に突き刺さる


書いても書いても書き尽くせないし、取り留めのない文章ばかりが生まれていく……けれど、自分の心の叫びは残せたかな!と思います!
素晴らしい舞台をありがとうございました。刀ミュ最高~