美少年回転寿司録

消費しなければ生きてはいけない

極夜

明けない夜はなく、暁が彼らを照らす。何度も、何度でも。

「伽羅は徳川の時代を上手く渡り歩いた政宗様より、戦に生きる猛将の政宗様が好きなんだなぁ~!」
 俺は知っていると自慢げな太鼓鐘貞宗のその言葉を、大倶利伽羅は決して否定しなかったのだ。

備忘録
記憶違い有り

6月某日、京都、京都劇場
舞台『刀剣乱舞』義伝 暁の独眼竜 観劇。

2015年初頭に始まったゲーム刀剣乱舞
舞台『刀剣乱舞』はゲームを原案としたメディアミックス展開の一つであり、初演、再演と虚伝 燃ゆる本能寺の公演が行われ、義伝は三回目の公演、作品としては二作目の作品となる。
登場する刀剣男士は三日月宗近、山姥切国広、大倶利伽羅、燭台切光忠、太鼓鐘貞宗、小夜左文字、歌仙兼定の八振り。
前作、燃ゆる本能寺では十二振りだったのに対し、今作では八振り。
一部隊六振り編成が原則とされる刀剣乱舞で、この八振りがどのように物語に関わっていくのが今作の見どころの一つである。

西暦2205年。
歴史改変を目論む「 歴史修正主義者 」が過去への攻撃を開始した。
対峙する時の政府は歴史の守りとして「 審神者 」なる者を過去へと派遣する。

物の心を 励起する審神者の力によって生み出された、
刀剣に宿りし付喪神「 刀剣男士 」たちは、審神者と共に歴史を守る戦いへと身を投じる。

本丸では、小夜左文字がなにやら気落ちした様子であった。
近侍である山姥切国広は、悩みを聞きだそうとするが、小夜は山姥切を避けるような態度を見せる。
また、延享四年へと調査任務に赴いた大倶利伽羅と歌仙兼定は、任務先で仲違いをしてしまう。
倶利伽羅と同じく元伊達家の刀である燭台切光忠、鶴丸国永、そして本丸の新たな仲間として顕現した太鼓鐘貞宗は、ふたりの仲違いを解決しようと思案する。
鶴丸がなにか良い案はないか主に相談すると、主から意外な任務が下された。
三日月宗近は、そんな本丸を見守っている。

一方、戦国の世では、豊臣秀吉による天下統一が果たされようとしていた。
その時代の移り目に、終わりゆこうとする戦国を憂うひとりの男がいた。
その男、伊達藤次郎政宗
天下人への夢を燻らせ続ける政宗に、彼と信義の絆で結ばれた盟友・細川与一郎忠興は、やがて来る泰平の世を生きていくことを諭す。

政宗が天下人となることは《見果てぬ夢》なのか…

ある日、刀剣男士たちに出陣の命が下りる。
出陣先は、慶長5年(1600年)、徳川家康率いる東軍と、毛利輝元石田三成らが率いる西軍とが大激突を繰り広げた天下分け目の大戦 関ヶ原の戦い

そこで刀剣男士たちがみたものは――?
(あらすじ 公式HPより抜粋)

初めての観劇

舞台『刀剣乱舞』は前作からライブビューイングや動画配信、Blu-rayやDVDで観ていたが、チケットが取れずに生で観る機会を得ることができていなかった。
今作、暁の独眼竜では運良くチケットを手に入り、生で観劇する次第となった。
緊張、高揚、緊張。
本当に生で舞台『刀剣乱舞』が観れるのだろうか?と手元にある電子チケットを確かめながら当日を迎えた。

今作の感想を一言でまとめると「難しい」だ。
決して、舞台が難しくて面白くないという意味ではなく、様々な難しい要素が散りばめられていたのだ。
物語の複雑さ、強さの意味、刀剣男士の感情、刀剣男士同士・人間同士の関係性、元主のその刀だった刀剣男士の在り方の違い、言葉の真意、等々。
挙げるときりがないのだが、どれも難しくて、そして面白いのだ。
難しいからこそ、人は思考を巡らせて、納得・理解という着地点に至る。
私が着地点に辿りつけているかどうかは、現段階では分からない。
考える余地がいっぱいあって、正直一回の観劇じゃまとめきれないのが本音だ。
(だからといって「難しい」という一言にまとめてしまうのはあまりに乱暴かもしれない)

観劇後に、様々な感情に襲われた。
「嬉しい」「楽しい」「悲しい」「寂しい」
自分の中にある感情って、こんなに多彩なんだということに、二十数年生きてきて初めて気付いた。
「劇場から出たくない」と思った舞台は生まれて初めてで、
それでも劇場から出ないわけにもいかず、ゆっくりと劇場を後にした。
様々な感情が同時に競り上がってきた理由は今でも分からない。
一つだけ言えるのは寂しいと思ったのは、「劇場を出ると、私の(観た)暁の独眼竜が終わってしまうかもしれない」とそんな気持ちが心のどこかにあったということだ。
残すところ、福岡・大千秋楽ライブビューイング。
それなりに、まとまらないなりの感想を書き残しておきたいと、筆を執った次第である。

見果てぬ夢

人間、そして人間だけでなく刀剣男士までも、願いや望み、理想を持つ。
大きさ、多さは各個人によるものだけれども、それらは皆平等に叶うものではない。
叶うことのない夢を切望し、その果てにあるのは夢の実現などではなく、無数に広がる現実だ。
追い求めた夢が形になっていることもあれば、全く意にそぐわない形になっていることもある。
けれど、その時彼らは確かに答えに到達する。
いかにして、彼らは答えを導き出すのか。
それは向き合うしかないと私は思う。
自分の願いや望み、理想、想いと向き合い、考えるしかないのだと思うのだ。

今作で、脚本を担当する方やキャストの方々がよく『成長』というワードを口にされている印象がある。
私のイメージの中にある『成長』は、どうしても人間的な成長(心身の成熟、技術的向上等)印象があるので、今作で『成長』と言われると妙に違和感を覚える。
舞台に関わっている方々に、納得できない!と噛み付きたいわけではなく、何をもって『成長』と称しているのだろうなと純粋に疑問に思うのだ。
舞台を観劇し、考えがまとまらないなりに、現段階で私は『成長』を『向き合うこと』という認識を持っている。

交錯する物語

およそ三つの視点に分かれて展開する今作の物語。

伊達政宗細川忠興
② 元の主と刀剣男士
③ 小夜左文字と山姥切国広(in本丸)

下手をすれば、ぐちゃぐちゃになってそれぞれの見所を消しかねない話の構成だった。
しかし逆に言えば制作側の手腕が輝くところで、流石というべきか、上手くまとめられている。
①~③が絶妙に交じり合っていて、正直この分け方に自分ですら納得がいっていない部分はあるのだが、要素を大きくしても上手くまとまらない可能性が広がるだけなのでこの①~③が交錯しているという前提で話を進めていく。
(個人的には伊達家にあった刀剣男士、歌仙兼定と小夜左文字、山姥切国広と三日月宗近等々が候補にあるがどちらかと①~③の前提にあるものとして考えておくことにする)
①と②が密接に混じり合い、③が魅せ方・見え方は違えど、①、②にあるテーマと同じように進んでいく。
彼らは向き合うことになる。誰でもない、自分自身と。

伊達藤次郎政宗

――伊達政宗は生まれてくる時代を間違えた。
奥州の英雄とされる彼であるが、三英傑と比べると歴史に刻まれた有名度が劣る。
(とは言え、昨今の様々な文化によりかなり有名ではある)
天下を手に取りたい野望はあっても、天下統一をめぐる豊臣と徳川の次に名を連ねることはなく、豊臣の配下に下り、徳川に与し、領国に繁栄をもたらした男。
歴史にifはないけれど、生まれてくる時が十数年早ければ、あるいはと思わせる力が確かにあった男。
それが私の伊達政宗の印象だ。

今作で、伊達政宗は自分が届かないと分かっている見果てぬ夢に手を伸ばす。
政宗の野望を一身に背負う甲冑や、歴史修正主義者の介入があったにせよ、政宗は天下統一の道を選び、関ヶ原の戦いを目指す。
徳川方の東軍でも、西軍の武将でもなく、独眼竜・伊達政宗としてどちらにも与せず、関ヶ原の合戦場に彼はいた。
見果てぬ夢を、夢で終わらせないために、彼はそこにいたのだ。

ゲーム刀剣乱舞-ONLINE-において、伊達家と縁があると言及されている刀剣男士は四振り存在している。
倶利伽羅、燭台切光忠、太鼓鐘貞宗、鶴丸国永。
今作では、その四振りが見せる伊達政宗(伊達家)への想い、四振りの関係性、刀剣男士としての在り方が作中に散りばめられていて、見え隠れしている様子を目にすることになる。

ただ、そこにあるのみ。

ゲームで政宗の名を口にする刀剣男士が二振り。その内の一振りが大倶利伽羅だ。
慣れ合うつもりはないと口にし、俺一人で十分だと、一人であることを選ぶ刀剣男士。
今作で彼を見た伊達政宗は、「若い頃の俺に似ている」と言う。
ゲーム中で表記が無いので、明確な言及は避けるが、大倶利伽羅が伊達家に在るのは、一説では関ヶ原の戦いが終わってからとされている。
元の主は伊達政宗と口にする彼は、いつの時代の伊達政宗なのだろうか。
少なくとも今作の大倶利伽羅は、戦国の世を生きた伊達政宗に特別な思い入れがあるように思える。
その彼が、若い頃=戦国の世を生きた伊達政宗に似ているというのは、偶然なのか必然なのか。

「生きるために慣れ合うことを選んだ男だ。俺はああはならない」
慣れ合うとは何なのか。
世の流れに合わせて周囲に迎合し、野望を、自らの望みを捨てるということなのだろうか。
個人(伊達政宗)としての理想を捨て、集団(伊達家、領国)としての理想を目指す。
それは心を殺すことと酷く似ている気がする。
倶利伽羅は、伊達家の当主として、そして仙台藩主として伊達政宗の苦悩を見たのだろうか。
それとも武具としての彼が、伊達政宗の内に燻る残り火を見たのだろうか。
ああはなりたくない、ではなくああはならないと口にする大倶利伽羅に、大倶利伽羅自身の在り方の中で、伊達政宗という存在が大きいということが分かるワンシーンだった。

「来たか、伊達藤次郎政宗……!」
関ヶ原の合戦場に戦う者として現れた伊達政宗を見て、大倶利伽羅は笑った。
あの笑みの中には歓喜と高揚が入り混じっていたように思える。
喜びだけというには、あまりに目が血走っていて、興奮だけというには、あまりに嬉しそうだった。
倶利伽羅はあの表情を他の刀剣男士に向けることも、本丸で見せることもないのだろう。
伊達政宗の刀である大倶利伽羅』は刀剣男士として顕現している限り、もうどこにも存在しないのだから。
刀剣男士である彼は、『伊達政宗の刀だった大倶利伽羅』なのだ。

伊達政宗が東軍に与せず、関ヶ原の戦いに参加することで、少しずつずれを見せていた歴史が大きく歪み始める。
そして、『伊達政宗が天下を取る世界線』が完成する。
この世界線を生み出したのは、歴史修正主義者の介入があってこそではあるだろうが、鍵となっているのは伊達政宗の天下への執念なのだろう。
伊達政宗が天下を取るために、彼自身が選んだのは、関ヶ原の戦いへの参戦。
恐らく東軍も西軍も制して、最終的に征夷大将軍の位置に着くのが目的だと思われる。
関ヶ原の戦いは言ってしまえば、伊達政宗の天下統一への道の第一歩目。
ここで死んでしまうなんて、あってはならないのだ。
関ヶ原の戦いでの伊達政宗の死を許さない世界。
この世界においては、彼は死を回避し続ける。時間の巻き戻しによって。
歪んだ歴史をループする世界線を脱し、正しい歴史が流れる世界線に戻るためには、伊達政宗を殺してはいけない。
彼を殺さずに、彼が作り出した執念のかたちを断ち切ることが、ループ世界に閉じ込められた刀剣男士の唯一の策となる。
初演→再演と続いた前作からちらりと影を見せていたループする世界。
今作で、分かりやすくその世界は姿を現した。
果たして、ループしているのは刀剣男士が遡っている戦場だけなのだろうか。

伊達政宗の執念を断ち切るために、刀剣男士たちは歴史修正主義者の介入があり具現化した政宗の執念=政宗の甲冑と戦うことになる。
三日月は、この甲冑を自分たちと似た存在かもしれないと表現した。
刀と甲冑、さにわと歴史修正主義者。心を持つ物、心に触れる者。
物が物という次元を超えるとき、介入する存在により、その形は大きく異なるのかもしれない。

ループを繰り返し、刀剣男士たちは関ヶ原の戦いに出陣する前の伊達政宗(と甲冑)の接触し、追い詰める。
(ここらへん、大分記憶が曖昧)
これが最後だ!と言わんばかりの伊達家縁の刀剣男士たちの真剣必殺姿。
この登場シーンが格好良いのなんの。
光を背に、シルエットが浮かび上がり、だんだんと形を見せていく。
ぼろぼろになりながら、戦い、前に進む刀剣男士は格好良いなぁと純粋に感動した。カッコイイ……。
天下人を望む政宗の執念の形、見果てぬ夢を体現する甲冑。
意思を持ち、行動するモノ。
彼にとどめをさすのは大倶利伽羅――のはずだった。

倶利伽羅は戦場で躊躇無く、迅速に、止まることなく、敵を、立ちはだかる者を斬り払っていた。
その大倶利伽羅が刀を止めた。
俺は、と彼は震える。
何やってるんだよ!という周りの声など、彼にはもう聞こえていなかったのだろう。
「俺はあんたの刀であれれば、それだけでよかった」
曇りないその言葉は、大倶利伽羅の望みだった。
これが、彼の心のうちだけに広がった言葉なのか、それとも彼が吐露し周りが拾った言葉なのか、私は覚えていない。
だだ、この言葉に嘘偽りはなく、真の、心からの願いだったのだろうと思った。
伊達政宗の見果てぬ夢の体現者である甲冑。
倶利伽羅もまた、見果てぬ夢を見るものだったのかもしれない。
『戦国の世を生きる伊達政宗の刀であること』
倶利伽羅の望み。理想。
その見果てぬ夢は三度、破れることになる。
一度目は、伊達政宗が徳川の世を生きたとき。
二度目は、大倶利伽羅が刀剣男士として顕現したとき。
そして、三度目――。

倶利伽羅の望みの裏には、どのような想いが潜んでいるのだろうか。
伊達政宗の夢を夢で終わらせたくない。そんな気持ちがあったのかもしれない。
自分が在ることで、夢の体現に一歩でも近づけるなら。
政宗とともに、政宗の夢が叶う景色を見れるのなら。
伊達政宗の執念となることすら厭わないのだろう。

倶利伽羅は自分が抱える物語に悩む小夜左文字、元主へ理解と不理解の相反する想いを抱く歌仙兼定をその目で見ている。
倶利伽羅は、どちらに対しても多くは語らなかった。

正しい歴史を守るために顕現した刀剣男士が、歪んだ歴史を再現しようとする者となる。
倶利伽羅にも、苦悩はあった(のだと思う)
一匹竜王、いじけた子犬と言われてしまうような彼ではあったが、正しい歴史を守る使命は理解していて、時間遡行軍と戦っていた。
倶利伽羅の望む夢は一度目は、時代の流れに破られ、二度目は、刀剣男士の使命に破られる。
彼は刀剣男士として顕現された時点で、端から理想の実現を諦めている。理性では。
しかし、刀として彼が持つ本能は諦めきれずにいた。
だからこそ、大倶利伽羅は理想の実現を遂げる可能性を終わらせることができなかった。
伊達政宗の見果てぬ夢と大倶利伽羅の見果てぬ夢が、頭の中で重なり合ったのかもしれない。

倶利伽羅は自分が抱える物語に悩む小夜左文字、元主へ理解と不理解の相反する想いを抱く歌仙兼定をその目で見ている。
倶利伽羅は、どちらに対しても多くは語らなかった。
二振りの想いに対して、是も非も唱えず、大倶利伽羅は大倶利伽羅のままであった。
だから、ここで大倶利伽羅を止めたのが二振りであったのであれば。
あるいは、元主・細川忠興と接触して、新たな見聞を得た歌仙兼定が彼を止めたのであれば。
倶利伽羅の見果てぬ夢は完全に打ち砕かれたのかもしれない。

倶利伽羅を止めたのは、鶴丸国永だった。
徳川の世を生きる伊達家しか知らない刀。
倶利伽羅を庇う形で、鶴丸国永は大倶利伽羅を制した。
そして鶴丸は、甲冑に取り込まれるのだった。
本来、鶴丸の位置にいるはずだった大倶利伽羅は、「俺のせいだ」と口にするのだった。

紆余曲折を経て、刀剣男士たちは伊達政宗の執念を断ち斬ることに成功する。
政宗自身もまた、天下人の夢を諦め、慶長出羽合戦へ向かう。
時が流れ、刀剣男士たちは主の命により、政宗最期の時をその目で見ることになる。
政宗の命が刻一刻を終わりを迎えるその時、彼の前に現れたのは盟友・細川忠興
彼は政宗の見果てぬ夢を政宗自身の口から告げられ、知っていた。
繰り返し続く世界で、忠興は何度も政宗の見果てぬ夢を阻止し続けて来た。
政宗の野望が、時代の流れとともに消えゆく様を、忠興は見ていた。
忠興は、寝たきりの政宗に「剣を取れ」と刀を投げつける。此処が、お前と俺の関ヶ原なのだと言うのだ。
政宗は剣を取り、よろよろになりながら忠興とぶつかり合い、倒れ、そして静かに息を引き取った。
忠興は、政宗の夢を叶えに来たのだろうか、それとも打ち砕きに来たのだろうか。
私は前者だと思いたいのだが、前者も後者も大きく見れば同義なのだ。
伊達政宗の見果てぬ夢は叶い、終わりを見せた。
では、大倶利伽羅はどうなのだろうか。
彼の理想は、此度も叶うことは無く、自分を含めた刀剣男士たちの手によって幕を閉じた。
倶利伽羅の見果てぬ夢は叶わず、してして終わりを見せることはなかった。
伊達政宗の執念とともに断ち斬られることはあったが、砕け散ることはなかったのだと私は思うのだ。
今作で、彼は成長などしていない。
ただ、他者の物語に向き合い、他者の感情に向き合い、伊達政宗に向き合い、そして自分自身と向き合った。
その答えが、見果てぬ夢の実現であり、もたらされたのが三度目の夢の跡。
倶利伽羅は今のままで刀剣男士としてある限り、見果てぬ夢を見続けるのだ。
そして、その夢を終わらせるのは他の誰でもなく、大倶利伽羅自身なのだろう。
その時、彼はどうやって己と向き合うのか。
今後、舞台『刀剣乱舞』の物語として描かれることはないであろう、己との向き合いの先にある『修行』にその答えはあるのかもしれない。

「さぁ、大舞台の始まりだ!」

鶴丸国永だ。平安時代に打たれてから、主を転々としながら今まで生きてきた。ま、それだけ人気があったってことだなあ。
……ただなあ、俺欲しさに、墓を暴いたり、神社から取り出したりは感心できないよなあ……
刀剣乱舞-ONLINE- 刀帳より抜粋)

前作から引き続き今作にも登場する刀剣男士。
前作での立ち位置は、織田信長とは何者なのかと悩み衝突する織田信長に縁のある刀剣男士や近侍として思い悩む山姥切国広を側から見ている役回り。
前作では、基本的に笑みを浮かべて楽しそうにしていた彼なのだが、今作では、前作ほどの笑顔を見せない。
(前作が見せすぎていたというか前作はほとんど笑っていたので見せすぎという見方もある)

驚きが足りなくて退屈。
三日月宗近との手合わせに身が入らない鶴丸はそう言った。
笑顔が少ない理由はまあ、概ねこの理由なのだろう。
彼はかつて、この生を受けたからには天くらいは驚かせてみたいと言った。
そして彼には、天よりも驚かせたい者がいるのだ、と。
その相手こそが三日月宗近だ。
この台詞を聞いた時に私は、三日月を驚かせたいのに、三日月と相対する手合わせで退屈さは払拭できないのかと純粋に驚いた。

三日月を驚かせたいという言葉をそのままに受け取るかどうか。
それはこのあとに続く、「だから三日月も俺を驚かせてくれよ」という鶴丸の言葉をどう受け取るかにもよると思う。
個人的に鶴丸が天を驚かせたいという感情は、ただ純粋なものだけでなく、自分の生きた証を刻むためであったり、純然たる続く運命のレールへの反骨心から生じたものだったりするものだと私は考えている。
天よりも驚かせたい三日月宗近
この言葉通り受け取ると、天の上位互換が三日月ということになるのだが、鶴丸の天に向ける感情と三日月宗近に向ける感情が私の中で完全に種類が違う。
では、鶴丸三日月宗近に何を思っているのか。
「三日月は山姥切の心配ばかりして大変だなあ」
山姥切と話す三日月を見た後、鶴丸は三日月にそう告げる。
山姥切と三日月の関係性を外から見た場合、本丸の近侍とその前の近侍という関係性が妥当であろう。
だから、以前近侍を務めていた三日月が、近侍として未熟な山姥切を導いているという見立てが生まれてくる。
果たしてそうだろうか。
鶴丸国永が見ていた光景は、そんなものだったのだろうか。
「お主のことも心配しているぞ、鶴丸国永」
三日月にそう言われたときの鶴丸の表情を私はあまりよく覚えていない。
ただ、三日月が何かをしようとしている、何かを知っている、何かを企んでいる。
そのために三日月宗近は山姥切国広を導こうとしている。
鶴丸国永は三日月の何かしらに気付いていて、驚かせてくれよという発言をしたのだと思いたいのだ。
彼を、三日月宗近と同じ平安時代に生まれた刀だと作中で描いた脚本・演出の意味の一つがこれだと思わずにはいられないのだ。
(ただ、期待値が高すぎるのも重々承知である)

話は重複するが、今作で鶴丸国永は三日月同様『ジジイ』であると明言される。
三日月宗近の役割は見守ること、導くこと。
この三日月と同列に並べた鶴丸国永の役割も、やはり見守ることにあったのだと私は思う。
見守る。何を――。
伊達家に縁のあった刀として、伊達政宗の執念の果てを、夢の終わりを。
しかし、見守るだけじゃ鶴丸国永の性に合わない。
物語に自ら介入していき、一歩引いたところで事態を眺める。
その様こそが、鶴丸国永にとって見守ることなのかもしれない。
思えば、前作ではそのようなスタンスを保っていたと記憶している。
それは見守るというよりも、観察しているというニュアンスの方がしっくり来る気がする。
愉快な傍観者は、軽妙で酔狂であっても、戦うことを忘れたことはない。まるで、道化師だ。
鶴丸国永は道化を演じ続けることができるのか。
結果的に言えば、その判断は観客に委ねられた。

倶利伽羅伊達政宗の執念を断ち斬ることができなった。
彼が執念の一部となろうとしたとき、それを止めたのは鶴丸国永だった。
「それはだめだぜ」
特に驚いた様子もなく、鶴丸は大倶利伽羅を庇い、そして執念に取り込まれていった。
今作で、鶴丸国永は伊達家に縁のある刀として明言されているが、
舞台上では、伊達家に縁のある他の三振りと密接に関わっているわけではない。
その彼が、大倶利伽羅の行動を予想していたかのように止めた。
可能性の一つとしてあったのだろう。
これは鶴丸国永だけに言えることではなく、燭台切光忠や太鼓鐘貞宗も予想していたことではあるのだろう。
倶利伽羅が反旗を翻すかもしれない⇔そんなことはしないという可能性をそれぞれが持ち、
燭台切が「そんなことしてはいけない」
太鼓鐘が「そんなことするはずがない」と思う中、
鶴丸は「するかもしれない」の可能性の比重が二振り大きかった。
あるいは、三振りよりも長く在る刀として、視野に余裕があったとも考えられる。
何にせよ、少し離れた場所から物語に介入していた鶴丸国永が、これで一気に物語の中心に引きずり出された。

執念に取り込まれた鶴丸国永は、その白の衣装と銀の髪を、黒に染めて姿を見せた。
そこに鶴丸の意識はなく、執念が鶴丸の体を憑依している状態だった。
ここで、私は疑問に近い感想を抱いた。
なぜ、憑依された鶴丸を真っ黒にしなかったのだろう。真っ黒の方が格好良くない?と。
黒の髪、黒の衣装ではあったが、完全に真っ黒ではなく、白い部分が残っていたのだ。
舞台という時間や空間を始めとした、あらゆるもの限られたエンターテイメントで、このちぐはぐな出で立ちは何を表現したいのか。何かしらの意味はあるのか。
――そう、意味はあったのだ。(と私は思っている)
刀剣男士は黒い鶴丸鶴丸を憑依体とする政宗の執念)と相対する中で、
黒い鶴丸は、『鶴丸国永』として言葉を発したシーンがあった。
「主を転々としたせいか、俺の物語は朧げなんだ」
この時の彼は笑っていた。彼がよく見せていた楽しそうな笑みではない笑みだった。
今作では、小夜左文字のように自分の物語に悩む者や、大倶利伽羅、歌仙兼定のように元の主に対しての想いを抱える者が多い中で、鶴丸は自分の物語に対してそう言ったのだ。
この言葉の中にはどんな感情が込められていたのだろうか。
執念も言い方を替えれば、心の中で生まれた想いが積み重なってできたものだ。
執念に取り込まれた鶴丸はそれを一番近くで感じたのだろうか。
そして、甲冑と自分を比べたのだろうか。
それは鶴丸国永にしか分からない。

自分は朧げな物語で、甲冑に比べたら執着も情念も薄いけれど、それでも伊達家にあった刀として、執念に幕を下ろす。鶴丸はそう言った。
黒い鶴丸の体に向けて、大倶利伽羅と燭台切と太鼓鐘の刃が振り下ろされる。
執念が剥がれた体で、ぼろぼろになりながら鶴丸は上手く行った、と弱々しく笑った。
そう。憑依されたのも含めて彼の作戦だったのだ。
歪んだ歴史を正すための作戦。さて、どこまでが彼の作戦通りだったのだろうか。
彼の言葉、行動すべてが作戦通りだったのかもしれない。
それでも私は、彼のすべてが嘘・偽りだったとは思わない。
「それはだめだぜ」と大倶利伽羅を止めた、あの戦場にはふさわしくない優しげな声。
「俺の物語は朧げなんだ」と笑ってみせた、あのときの声の震え、哀愁を帯びた笑み。
あれらがすべて演技だったとは思えないのだ。
鶴丸国永は嘘と本音を織り交ぜて、愉快に、業とらしく、本物のように喋る。
軽妙で、酔狂で、それでも彼の心の中には戦場がある。
いくら人に近付いたとて、人を真似たとて、彼はどこまでも刀なのだ。
だからこそ、彼は人らしく、楽しもうとしているのかもしれない。すべてを。
道化を演じる鶴丸国永は今日も今日とて楽しそうでなりよりだ。
「時の政府や審神者の傀儡ではないか!」と言ったとき、果たして意識はどちらにあったのだろうか。
漆黒の出で立ちで、型を重んじた丁寧な刀捌きを見せていた彼は確かに笑っていたのだ。
あの笑みが今となってもわたしの頭の中に残り続ける。

「人生には驚きが必要なのさ。予想し得る出来事だけじゃあ、心が先に死んでいく」

復讐の怨念

小夜左文字が抱える物語は、所謂復讐の物語だ。
細川家に流れ着く前の小夜左文字が関わったとされる物語。
彼の持ち主であった男は小夜を使い、復讐を遂げるのだが、
刀剣男士として顕現した小夜の中で復讐という物語は続く。
復讐する相手すら、見えないままに。そんなものはいないと分かっていながら。

今作で彼は思い悩む。
強くなりたいと願った彼の目に写ったのは、伊達家にあった刀たちだ。
小夜左文字は彼らを強いと言った。
人々の想いだとか願いだとか、纏わる伝承、物語を一身に受けながらも、刀剣男士として与えられた器を好しとし、謳歌しているように見えるのだと。
作中で山姥切国広が小夜は小夜だというニュアンスの言葉を彼に投げる。
これは前作で山姥切が“そう”思えるようになったことで、この言葉を自分ではない誰かに投げ掛けていたのは実に感慨深い。
そう。山姥切の言う通り、あくまで、小夜が伊達の刀に見る『強さ』とは、小夜左文字から見た主観だ。
小夜の目指す先が、伊達の刀のような刀剣男士なのか。
小夜は伊達の刀のようにならなければならないのか。
それは不可能に近い。
小夜左文字は小夜文字であり、大倶利伽羅でも、燭台切光忠でも、太鼓鐘貞宗でも、鶴丸国永でもないのだから。
伊達政宗は見果てぬ夢を望んだ。
小夜左文字の伊達の刀たちに見る『強さ』は、伊達政宗の見果てぬ夢と少し似ているなと思った。
ああなりたい、ああはなれないと思いながら、小夜は強さを求めるのだ。

強いとは何なのだろうか。
曰く、強いとはやさしいこと。
曰く、強いとはかなしいこと。
小夜左文字が導き出した答えを私は見ることができない。
それでも、彼が刀剣男士・小夜左文字辿りつく目指すべき強さを探すために、自分と向き合っていた姿を知っている。
修行の先にある、小夜左文字極というかたちで彼はあの本丸に帰ってくるのだろう。

九曜と竹雀のえにし

倶利伽羅、燭台切光忠、太鼓鐘貞宗、鶴丸国永、歌仙兼定、小夜左文字。
この六振りの名を並べられると私が思いつくのは、回想「九曜と竹雀のえにし」だ。
倶利伽羅と歌仙が仲違いをし、どうにか仲直りさせようと他の面子が画策して、何だかんだで二振りの中が深まる回想。
開放条件が中々に厳しい回想なのだが、義伝 暁の独眼竜でもこの回想がベースになっていることは間違いない。
不満というか文句に近い形になってしまうのだが、ゲームのこの回想の重要な部分は何だかんだで二振りの仲が深まる、何だかんだの部分だ。
残念なことにゲームではこの何だかんだの部分が描かれていない。
倶利伽羅、歌仙で描かれる展開をA、燭台切、太鼓鐘、鶴丸、小夜で描かれる展開をBとする。
九曜と竹雀のえにしは、大まかに「発端→勃発→接触→協力→団結→落着→縁故」という流れが提示されている。
発端・勃発で歌仙と大倶利伽羅の衝突、接触・協力でそれを知った刀たちの反応、
団結・真心で歌仙と大倶利伽羅の仲違いを解消しようとする刀たちの行動、
落着・縁故で歌仙と大倶利伽羅の歩み寄りが描かれている。
起承転結で示すなら、発端・勃発→接触・協力→団結・真心→落着・縁故となり、
これがA→B→B→Aという展開で描かれている。
前述した何だかんだの部分とはこの接触・協力→団結・真心でのAのことを指す。
ここが描かれていないが故にBで描かれたことを汲み取って考えるしか無いのだが、
表面的に読むと、「周りに気を遣わせてしまったから歩み寄ろう」になるのだ。
歌仙と大倶利伽羅がそう思うとはあまり考えられないので、
きっと何かがあって、歩み寄る気になったのだろう……と考えていた。

暁の独眼竜に登場する刀剣男士が発表されたとき、ゲームの回想の行間埋めをさせるのか?という不安が頭によぎった。
燃ゆる本能寺では、ゲームの台詞、回想を汲みつつ、舞台『刀剣乱舞』としての物語を描いているように感じたので、原案であるゲームと舞台が完全なる重なりを見せてしまうことに不安を覚えたのだろう。
(個人的に、刀剣乱舞の土台設定はゲーム刀剣乱舞-ONLINE-にあると思っているので)

舞台を観劇すると、やはりそんな不安は杞憂であったと思い知らされた。
暁の独眼竜も刀剣乱舞-ONLINE-を根幹とした舞台『刀剣乱舞』の物語が描かれていたと感じたからだ。
物が語る故、物語。なぞり書きでは物語とは言えない。

歌仙、大倶利伽羅を始めとする細川・伊達家に縁のある六振りは主の命で伊達政宗の最期を遠くから見ることとなる。
伊達政宗細川忠興が紡いだ縁を大切にしていこう。
燭台切は皆にそう語りかけ、その言葉や光景は歌仙や大倶梨伽羅の心にも何かを残したのだろう。
歌仙と大倶利伽羅が酒を酌み交わしている様子は、きっと彼らが出した答えで歩み寄りなのだと私は思っている。

三日月宗近とは「何者」なのか

前作、今作ともに、一歩引いたかたちで物語を見守る存在である三日月宗近
語り部に近い位置にいる彼は、さながら物語を紡ぐ神の視点に一番近い存在に見える。
実際の所、彼の物語の一部であり、彼には彼の物語がある。
今作で彼自身もそれについて言及しているし、それが刀剣男士という存在だ。
山姥切国広は彼に言った。この本丸をどうしたいのか、と。
「俺はただ、この本丸に強くあってほしいだけだ」
こう言った三日月には、前作で見せなかった感情の揺れが見て取れた。
強くあれ。それは彼の言う来るべき時に備えてのことだとして、彼は何を知っているのだろうか。
もしくは、何を見たのだろうか。
彼はどこまで知っていて、どこまで見えているのだろうか。

語り部の構成は、主に三日月にある。
しかし、前作も今作も事の顛末を述べるのは山姥切国広だ。
いつか三日月が語り部でなくなる時、それはこの物語が終わりを迎える時なのであろうか。

オープニング/エンディング

舞台『刀剣乱舞』名物、刀剣男士が歌うオープニングとエンディング。
さて、今作のOPとEDなのだが……記憶が飛んでしまった。
とても格好良くて、本能寺と違った良さをたくさん感じたのだが、忘れてしまった。
歌詞すら覚えていない。とても悲しいことである。
なんか、カッコイイ……とじんわり思ったことだけは覚えている。
こんな心残りを引きずりつつ、舞台『刀剣乱舞』義伝 暁の独眼竜の感想をこれにて幕引きとする。

舞台を生で観劇するのは楽しいなあ。
今回もあまりに思うがままに書いてしまったので、もう少し考えをまとめてから、ライブビューイング臨みたい。

曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 照してぞ行く


感想って何だっけ。
感想なのかレポなのか解釈なのか、書いていてよく分からなくなることがある。
ただ、今回は感想でありレポであり解釈をつらつらとダラダラと書いていたように思える。
自分の考えを精査するために。
此処からは精査ゼロ!本能で書き連ねる。見果てぬ夢って何回打ったんだろう。

刀ステ、観たぞ~~~~~~~!!!!
よかったなあ、よかったなあ……生で観れて本当によかった!

織田信長、罪な男だな……。

前述では触れてないんだけれど、今作で途中まで刀ステにおける燭台切光忠って凄いズルい描かれ方をしてるなと思ってて。
倶利伽羅が心揺らす中、彼は平然としているように見えたからそう思ってしまって。
それでもそんな彼が、大倶利伽羅が甲冑に取り込まれようとしたとき、「何やってるんだよ!」って大声出してたのが凄い良くて。
散々大倶利伽羅に「分かってる?」みたいな圧を掛けてきて、それに大倶利伽羅は「分かってる」って返しいて、そこからの「何やってるんだよ!」 そうだよね、何やってるんだよ、だよね。散々言ったもんね。
燭台切にも何かしらの葛藤があって、それを周りや観客には見せなくて、爆発したのがあの言葉なのかもしれない。
政宗公と会った時もきっと表情で見せていたよりも複雑な想いを抱いていたのかもしれない。
だからこそ、黒い鶴丸が出てきたときに真っ先に飛び出して、一対一になったシーンがすごく印象的で。
本来ならああいう場面で燭台切ってひとりで飛び出していく性質じゃないと思っているので、よっぽど動揺していたんだろうな、と。
その動揺を見抜いたのは顕現して間もない太鼓鐘貞宗。
太鼓鐘は顕現して、燭台切の側にいることが多く、いつだって楽しそうだった。
燭台切が「この体で一番いいのは料理を作れることだね」と言っているシーンも特に口出しせずただ見ているだけだった。
思い返してみれば、ここで太鼓鐘は何かしらの感情を抱いていたのかもしれない。燭台切を肯定する以外の感情を。
太鼓鐘は戦場で「刀の本分に立ち戻ろうぜ、みっちゃん!」と刀を構え、燭台切を奮い立たせる。
今作での太鼓鐘は顕現して間もないからこそ、この台詞が言えたのかもしれない。
それでも、二振りには練度など関係なく、互いを高め合うための鏡のように思えた。
だから、格好悪い姿は見せられないし、助け合うし、鼓舞し合う。
この二振りの仲の良さは、相互依存や性質同有からかけ離れていて、たとえ考えが違っていても、互いにリスペクトできて、高め合える関係性あるんだなあと改めて思った。

太鼓鐘貞宗。超最高だった。
前述で全然触れられなかったんだけど、今回の舞台、彼の一挙手一投足がホントにツボ中のツボで。
表情も、台詞回しも、殺陣も、派手で華やかで芯があって。大好き。
出陣中に舞台で小夜と太鼓鐘だけ敵の気配にいち早く気付くあのシーン、最高超えてた。

倶利伽羅。超最高だった。
割烹着きて踞る山姥切を何度か見た後に「フン」って鼻で笑うのが面白すぎて。
彼に関しては山のように書いたのに書ききってないことがあって、キリがないのでこれで。
殺人マシーンオーダー殺陣、最高だった。ありがとう世界。ありがとう舞台『刀剣乱舞

そういえば、甲冑に飲み込まれてスクリーンに写る鶴丸国永、あまりにコワすぎ!*1でフフっと笑ってしまったんだよな。
真剣必殺!これでキマリ!からの鶴丸憑依に動揺を隠せない観客、そこに確かに私も含まれていたはずなのだが、笑ってもいたのだ。
動揺しながら笑ったのは人生で初めてだった。人生初体験を今作に捧げまくっている気がする。

今作は舞台『刀剣乱舞』の物語でいうと起承転結の『承』だったのだろうか。
次、があるとしたら大きく物語が動く、そんな気がする。
その前か後にいっちょやってほしいと思う過去編。
何をするのか? いや分からないけど三日月が近侍をやってた頃の話が見てみたい。そんな気もする。

ミュージカル、舞台ともに三日月宗近が登場している。
そして今作では、大倶利伽羅も登場。
これが意図したものなのか、どうなのか。
そんなものはさておき、折角ならいつか対談インタビューしてほしいなあというのが本音。
キャストさんからしたら気が気じゃないのかもしれないけれど、見ていたい。
あと、これはエンターテイメントに対する挑戦かもしれないのだけれど、同じ面子・同じ題材で描かれたミュージカルと舞台を見てみたい。
キャスト、脚本、演出、音楽はそれぞれ違うもので。富豪エンタメだな……。

何はともあれ、刀剣乱舞が末永く続きますように! 以上!

*1:『戦慄怪奇ファイル コワすぎ!』日本のオリジナルビデオおよび劇場用映画のホラー映画シリーズである。白石晃士作。