「魂の輝きなくして、生命は終わりを迎えぬ」

灰の雪が降り積もる街に屹立する工場があった。飾られるための人形を造る/創る工場が。そんな工場の一角に人の子や人ならざる者が、『人形』として展示されているとか。

極夜

明けない夜はなく、暁が彼らを照らす。何度も、何度でも。

「伽羅は徳川の時代を上手く渡り歩いた政宗様より、戦に生きる猛将の政宗様が好きなんだなぁ~!」
 俺は知っていると自慢げな太鼓鐘貞宗のその言葉を、大倶利伽羅は決して否定しなかったのだ。

備忘録
記憶違い有り

6月某日、京都、京都劇場
舞台『刀剣乱舞』義伝 暁の独眼竜 観劇。

2015年初頭に始まったゲーム刀剣乱舞
舞台『刀剣乱舞』はゲームを原案としたメディアミックス展開の一つであり、初演、再演と虚伝 燃ゆる本能寺の公演が行われ、義伝は三回目の公演、作品としては二作目の作品となる。
登場する刀剣男士は三日月宗近、山姥切国広、大倶利伽羅、燭台切光忠、太鼓鐘貞宗、小夜左文字、歌仙兼定の八振り。
前作、燃ゆる本能寺では十二振りだったのに対し、今作では八振り。
一部隊六振り編成が原則とされる刀剣乱舞で、この八振りがどのように物語に関わっていくのが今作の見どころの一つである。

西暦2205年。
歴史改変を目論む「 歴史修正主義者 」が過去への攻撃を開始した。
対峙する時の政府は歴史の守りとして「 審神者 」なる者を過去へと派遣する。

物の心を 励起する審神者の力によって生み出された、
刀剣に宿りし付喪神「 刀剣男士 」たちは、審神者と共に歴史を守る戦いへと身を投じる。

本丸では、小夜左文字がなにやら気落ちした様子であった。
近侍である山姥切国広は、悩みを聞きだそうとするが、小夜は山姥切を避けるような態度を見せる。
また、延享四年へと調査任務に赴いた大倶利伽羅と歌仙兼定は、任務先で仲違いをしてしまう。
倶利伽羅と同じく元伊達家の刀である燭台切光忠、鶴丸国永、そして本丸の新たな仲間として顕現した太鼓鐘貞宗は、ふたりの仲違いを解決しようと思案する。
鶴丸がなにか良い案はないか主に相談すると、主から意外な任務が下された。
三日月宗近は、そんな本丸を見守っている。

一方、戦国の世では、豊臣秀吉による天下統一が果たされようとしていた。
その時代の移り目に、終わりゆこうとする戦国を憂うひとりの男がいた。
その男、伊達藤次郎政宗
天下人への夢を燻らせ続ける政宗に、彼と信義の絆で結ばれた盟友・細川与一郎忠興は、やがて来る泰平の世を生きていくことを諭す。

政宗が天下人となることは《見果てぬ夢》なのか…

ある日、刀剣男士たちに出陣の命が下りる。
出陣先は、慶長5年(1600年)、徳川家康率いる東軍と、毛利輝元石田三成らが率いる西軍とが大激突を繰り広げた天下分け目の大戦 関ヶ原の戦い

そこで刀剣男士たちがみたものは――?
(あらすじ 公式HPより抜粋)

初めての観劇

舞台『刀剣乱舞』は前作からライブビューイングや動画配信、Blu-rayやDVDで観ていたが、チケットが取れずに生で観る機会を得ることができていなかった。
今作、暁の独眼竜では運良くチケットを手に入り、生で観劇する次第となった。
緊張、高揚、緊張。
本当に生で舞台『刀剣乱舞』が観れるのだろうか?と手元にある電子チケットを確かめながら当日を迎えた。

今作の感想を一言でまとめると「難しい」だ。
決して、舞台が難しくて面白くないという意味ではなく、様々な難しい要素が散りばめられていたのだ。
物語の複雑さ、強さの意味、刀剣男士の感情、刀剣男士同士・人間同士の関係性、元主のその刀だった刀剣男士の在り方の違い、言葉の真意、等々。
挙げるときりがないのだが、どれも難しくて、そして面白いのだ。
難しいからこそ、人は思考を巡らせて、納得・理解という着地点に至る。
私が着地点に辿りつけているかどうかは、現段階では分からない。
考える余地がいっぱいあって、正直一回の観劇じゃまとめきれないのが本音だ。
(だからといって「難しい」という一言にまとめてしまうのはあまりに乱暴かもしれない)

観劇後に、様々な感情に襲われた。
「嬉しい」「楽しい」「悲しい」「寂しい」
自分の中にある感情って、こんなに多彩なんだということに、二十数年生きてきて初めて気付いた。
「劇場から出たくない」と思った舞台は生まれて初めてで、
それでも劇場から出ないわけにもいかず、ゆっくりと劇場を後にした。
様々な感情が同時に競り上がってきた理由は今でも分からない。
一つだけ言えるのは寂しいと思ったのは、「劇場を出ると、私の(観た)暁の独眼竜が終わってしまうかもしれない」とそんな気持ちが心のどこかにあったということだ。
残すところ、福岡・大千秋楽ライブビューイング。
それなりに、まとまらないなりの感想を書き残しておきたいと、筆を執った次第である。

見果てぬ夢

人間、そして人間だけでなく刀剣男士までも、願いや望み、理想を持つ。
大きさ、多さは各個人によるものだけれども、それらは皆平等に叶うものではない。
叶うことのない夢を切望し、その果てにあるのは夢の実現などではなく、無数に広がる現実だ。
追い求めた夢が形になっていることもあれば、全く意にそぐわない形になっていることもある。
けれど、その時彼らは確かに答えに到達する。
いかにして、彼らは答えを導き出すのか。
それは向き合うしかないと私は思う。
自分の願いや望み、理想、想いと向き合い、考えるしかないのだと思うのだ。

今作で、脚本を担当する方やキャストの方々がよく『成長』というワードを口にされている印象がある。
私のイメージの中にある『成長』は、どうしても人間的な成長(心身の成熟、技術的向上等)印象があるので、今作で『成長』と言われると妙に違和感を覚える。
舞台に関わっている方々に、納得できない!と噛み付きたいわけではなく、何をもって『成長』と称しているのだろうなと純粋に疑問に思うのだ。
舞台を観劇し、考えがまとまらないなりに、現段階で私は『成長』を『向き合うこと』という認識を持っている。

交錯する物語

およそ三つの視点に分かれて展開する今作の物語。

伊達政宗細川忠興
② 元の主と刀剣男士
③ 小夜左文字と山姥切国広(in本丸)

下手をすれば、ぐちゃぐちゃになってそれぞれの見所を消しかねない話の構成だった。
しかし逆に言えば制作側の手腕が輝くところで、流石というべきか、上手くまとめられている。
①~③が絶妙に交じり合っていて、正直この分け方に自分ですら納得がいっていない部分はあるのだが、要素を大きくしても上手くまとまらない可能性が広がるだけなのでこの①~③が交錯しているという前提で話を進めていく。
(個人的には伊達家にあった刀剣男士、歌仙兼定と小夜左文字、山姥切国広と三日月宗近等々が候補にあるがどちらかと①~③の前提にあるものとして考えておくことにする)
①と②が密接に混じり合い、③が魅せ方・見え方は違えど、①、②にあるテーマと同じように進んでいく。
彼らは向き合うことになる。誰でもない、自分自身と。

伊達藤次郎政宗

――伊達政宗は生まれてくる時代を間違えた。
奥州の英雄とされる彼であるが、三英傑と比べると歴史に刻まれた有名度が劣る。
(とは言え、昨今の様々な文化によりかなり有名ではある)
天下を手に取りたい野望はあっても、天下統一をめぐる豊臣と徳川の次に名を連ねることはなく、豊臣の配下に下り、徳川に与し、領国に繁栄をもたらした男。
歴史にifはないけれど、生まれてくる時が十数年早ければ、あるいはと思わせる力が確かにあった男。
それが私の伊達政宗の印象だ。

今作で、伊達政宗は自分が届かないと分かっている見果てぬ夢に手を伸ばす。
政宗の野望を一身に背負う甲冑や、歴史修正主義者の介入があったにせよ、政宗は天下統一の道を選び、関ヶ原の戦いを目指す。
徳川方の東軍でも、西軍の武将でもなく、独眼竜・伊達政宗としてどちらにも与せず、関ヶ原の合戦場に彼はいた。
見果てぬ夢を、夢で終わらせないために、彼はそこにいたのだ。

ゲーム刀剣乱舞-ONLINE-において、伊達家と縁があると言及されている刀剣男士は四振り存在している。
倶利伽羅、燭台切光忠、太鼓鐘貞宗、鶴丸国永。
今作では、その四振りが見せる伊達政宗(伊達家)への想い、四振りの関係性、刀剣男士としての在り方が作中に散りばめられていて、見え隠れしている様子を目にすることになる。

ただ、そこにあるのみ。

ゲームで政宗の名を口にする刀剣男士が二振り。その内の一振りが大倶利伽羅だ。
慣れ合うつもりはないと口にし、俺一人で十分だと、一人であることを選ぶ刀剣男士。
今作で彼を見た伊達政宗は、「若い頃の俺に似ている」と言う。
ゲーム中で表記が無いので、明確な言及は避けるが、大倶利伽羅が伊達家に在るのは、一説では関ヶ原の戦いが終わってからとされている。
元の主は伊達政宗と口にする彼は、いつの時代の伊達政宗なのだろうか。
少なくとも今作の大倶利伽羅は、戦国の世を生きた伊達政宗に特別な思い入れがあるように思える。
その彼が、若い頃=戦国の世を生きた伊達政宗に似ているというのは、偶然なのか必然なのか。

「生きるために慣れ合うことを選んだ男だ。俺はああはならない」
慣れ合うとは何なのか。
世の流れに合わせて周囲に迎合し、野望を、自らの望みを捨てるということなのだろうか。
個人(伊達政宗)としての理想を捨て、集団(伊達家、領国)としての理想を目指す。
それは心を殺すことと酷く似ている気がする。
倶利伽羅は、伊達家の当主として、そして仙台藩主として伊達政宗の苦悩を見たのだろうか。
それとも武具としての彼が、伊達政宗の内に燻る残り火を見たのだろうか。
ああはなりたくない、ではなくああはならないと口にする大倶利伽羅に、大倶利伽羅自身の在り方の中で、伊達政宗という存在が大きいということが分かるワンシーンだった。

「来たか、伊達藤次郎政宗……!」
関ヶ原の合戦場に戦う者として現れた伊達政宗を見て、大倶利伽羅は笑った。
あの笑みの中には歓喜と高揚が入り混じっていたように思える。
喜びだけというには、あまりに目が血走っていて、興奮だけというには、あまりに嬉しそうだった。
倶利伽羅はあの表情を他の刀剣男士に向けることも、本丸で見せることもないのだろう。
伊達政宗の刀である大倶利伽羅』は刀剣男士として顕現している限り、もうどこにも存在しないのだから。
刀剣男士である彼は、『伊達政宗の刀だった大倶利伽羅』なのだ。

伊達政宗が東軍に与せず、関ヶ原の戦いに参加することで、少しずつずれを見せていた歴史が大きく歪み始める。
そして、『伊達政宗が天下を取る世界線』が完成する。
この世界線を生み出したのは、歴史修正主義者の介入があってこそではあるだろうが、鍵となっているのは伊達政宗の天下への執念なのだろう。
伊達政宗が天下を取るために、彼自身が選んだのは、関ヶ原の戦いへの参戦。
恐らく東軍も西軍も制して、最終的に征夷大将軍の位置に着くのが目的だと思われる。
関ヶ原の戦いは言ってしまえば、伊達政宗の天下統一への道の第一歩目。
ここで死んでしまうなんて、あってはならないのだ。
関ヶ原の戦いでの伊達政宗の死を許さない世界。
この世界においては、彼は死を回避し続ける。時間の巻き戻しによって。
歪んだ歴史をループする世界線を脱し、正しい歴史が流れる世界線に戻るためには、伊達政宗を殺してはいけない。
彼を殺さずに、彼が作り出した執念のかたちを断ち切ることが、ループ世界に閉じ込められた刀剣男士の唯一の策となる。
初演→再演と続いた前作からちらりと影を見せていたループする世界。
今作で、分かりやすくその世界は姿を現した。
果たして、ループしているのは刀剣男士が遡っている戦場だけなのだろうか。

伊達政宗の執念を断ち切るために、刀剣男士たちは歴史修正主義者の介入があり具現化した政宗の執念=政宗の甲冑と戦うことになる。
三日月は、この甲冑を自分たちと似た存在かもしれないと表現した。
刀と甲冑、さにわと歴史修正主義者。心を持つ物、心に触れる者。
物が物という次元を超えるとき、介入する存在により、その形は大きく異なるのかもしれない。

ループを繰り返し、刀剣男士たちは関ヶ原の戦いに出陣する前の伊達政宗(と甲冑)の接触し、追い詰める。
(ここらへん、大分記憶が曖昧)
これが最後だ!と言わんばかりの伊達家縁の刀剣男士たちの真剣必殺姿。
この登場シーンが格好良いのなんの。
光を背に、シルエットが浮かび上がり、だんだんと形を見せていく。
ぼろぼろになりながら、戦い、前に進む刀剣男士は格好良いなぁと純粋に感動した。カッコイイ……。
天下人を望む政宗の執念の形、見果てぬ夢を体現する甲冑。
意思を持ち、行動するモノ。
彼にとどめをさすのは大倶利伽羅――のはずだった。

倶利伽羅は戦場で躊躇無く、迅速に、止まることなく、敵を、立ちはだかる者を斬り払っていた。
その大倶利伽羅が刀を止めた。
俺は、と彼は震える。
何やってるんだよ!という周りの声など、彼にはもう聞こえていなかったのだろう。
「俺はあんたの刀であれれば、それだけでよかった」
曇りないその言葉は、大倶利伽羅の望みだった。
これが、彼の心のうちだけに広がった言葉なのか、それとも彼が吐露し周りが拾った言葉なのか、私は覚えていない。
だだ、この言葉に嘘偽りはなく、真の、心からの願いだったのだろうと思った。
伊達政宗の見果てぬ夢の体現者である甲冑。
倶利伽羅もまた、見果てぬ夢を見るものだったのかもしれない。
『戦国の世を生きる伊達政宗の刀であること』
倶利伽羅の望み。理想。
その見果てぬ夢は三度、破れることになる。
一度目は、伊達政宗が徳川の世を生きたとき。
二度目は、大倶利伽羅が刀剣男士として顕現したとき。
そして、三度目――。

倶利伽羅の望みの裏には、どのような想いが潜んでいるのだろうか。
伊達政宗の夢を夢で終わらせたくない。そんな気持ちがあったのかもしれない。
自分が在ることで、夢の体現に一歩でも近づけるなら。
政宗とともに、政宗の夢が叶う景色を見れるのなら。
伊達政宗の執念となることすら厭わないのだろう。

倶利伽羅は自分が抱える物語に悩む小夜左文字、元主へ理解と不理解の相反する想いを抱く歌仙兼定をその目で見ている。
倶利伽羅は、どちらに対しても多くは語らなかった。

正しい歴史を守るために顕現した刀剣男士が、歪んだ歴史を再現しようとする者となる。
倶利伽羅にも、苦悩はあった(のだと思う)
一匹竜王、いじけた子犬と言われてしまうような彼ではあったが、正しい歴史を守る使命は理解していて、時間遡行軍と戦っていた。
倶利伽羅の望む夢は一度目は、時代の流れに破られ、二度目は、刀剣男士の使命に破られる。
彼は刀剣男士として顕現された時点で、端から理想の実現を諦めている。理性では。
しかし、刀として彼が持つ本能は諦めきれずにいた。
だからこそ、大倶利伽羅は理想の実現を遂げる可能性を終わらせることができなかった。
伊達政宗の見果てぬ夢と大倶利伽羅の見果てぬ夢が、頭の中で重なり合ったのかもしれない。

倶利伽羅は自分が抱える物語に悩む小夜左文字、元主へ理解と不理解の相反する想いを抱く歌仙兼定をその目で見ている。
倶利伽羅は、どちらに対しても多くは語らなかった。
二振りの想いに対して、是も非も唱えず、大倶利伽羅は大倶利伽羅のままであった。
だから、ここで大倶利伽羅を止めたのが二振りであったのであれば。
あるいは、元主・細川忠興と接触して、新たな見聞を得た歌仙兼定が彼を止めたのであれば。
倶利伽羅の見果てぬ夢は完全に打ち砕かれたのかもしれない。

倶利伽羅を止めたのは、鶴丸国永だった。
徳川の世を生きる伊達家しか知らない刀。
倶利伽羅を庇う形で、鶴丸国永は大倶利伽羅を制した。
そして鶴丸は、甲冑に取り込まれるのだった。
本来、鶴丸の位置にいるはずだった大倶利伽羅は、「俺のせいだ」と口にするのだった。

紆余曲折を経て、刀剣男士たちは伊達政宗の執念を断ち斬ることに成功する。
政宗自身もまた、天下人の夢を諦め、慶長出羽合戦へ向かう。
時が流れ、刀剣男士たちは主の命により、政宗最期の時をその目で見ることになる。
政宗の命が刻一刻を終わりを迎えるその時、彼の前に現れたのは盟友・細川忠興
彼は政宗の見果てぬ夢を政宗自身の口から告げられ、知っていた。
繰り返し続く世界で、忠興は何度も政宗の見果てぬ夢を阻止し続けて来た。
政宗の野望が、時代の流れとともに消えゆく様を、忠興は見ていた。
忠興は、寝たきりの政宗に「剣を取れ」と刀を投げつける。此処が、お前と俺の関ヶ原なのだと言うのだ。
政宗は剣を取り、よろよろになりながら忠興とぶつかり合い、倒れ、そして静かに息を引き取った。
忠興は、政宗の夢を叶えに来たのだろうか、それとも打ち砕きに来たのだろうか。
私は前者だと思いたいのだが、前者も後者も大きく見れば同義なのだ。
伊達政宗の見果てぬ夢は叶い、終わりを見せた。
では、大倶利伽羅はどうなのだろうか。
彼の理想は、此度も叶うことは無く、自分を含めた刀剣男士たちの手によって幕を閉じた。
倶利伽羅の見果てぬ夢は叶わず、してして終わりを見せることはなかった。
伊達政宗の執念とともに断ち斬られることはあったが、砕け散ることはなかったのだと私は思うのだ。
今作で、彼は成長などしていない。
ただ、他者の物語に向き合い、他者の感情に向き合い、伊達政宗に向き合い、そして自分自身と向き合った。
その答えが、見果てぬ夢の実現であり、もたらされたのが三度目の夢の跡。
倶利伽羅は今のままで刀剣男士としてある限り、見果てぬ夢を見続けるのだ。
そして、その夢を終わらせるのは他の誰でもなく、大倶利伽羅自身なのだろう。
その時、彼はどうやって己と向き合うのか。
今後、舞台『刀剣乱舞』の物語として描かれることはないであろう、己との向き合いの先にある『修行』にその答えはあるのかもしれない。

「さぁ、大舞台の始まりだ!」

鶴丸国永だ。平安時代に打たれてから、主を転々としながら今まで生きてきた。ま、それだけ人気があったってことだなあ。
……ただなあ、俺欲しさに、墓を暴いたり、神社から取り出したりは感心できないよなあ……
刀剣乱舞-ONLINE- 刀帳より抜粋)

前作から引き続き今作にも登場する刀剣男士。
前作での立ち位置は、織田信長とは何者なのかと悩み衝突する織田信長に縁のある刀剣男士や近侍として思い悩む山姥切国広を側から見ている役回り。
前作では、基本的に笑みを浮かべて楽しそうにしていた彼なのだが、今作では、前作ほどの笑顔を見せない。
(前作が見せすぎていたというか前作はほとんど笑っていたので見せすぎという見方もある)

驚きが足りなくて退屈。
三日月宗近との手合わせに身が入らない鶴丸はそう言った。
笑顔が少ない理由はまあ、概ねこの理由なのだろう。
彼はかつて、この生を受けたからには天くらいは驚かせてみたいと言った。
そして彼には、天よりも驚かせたい者がいるのだ、と。
その相手こそが三日月宗近だ。
この台詞を聞いた時に私は、三日月を驚かせたいのに、三日月と相対する手合わせで退屈さは払拭できないのかと純粋に驚いた。

三日月を驚かせたいという言葉をそのままに受け取るかどうか。
それはこのあとに続く、「だから三日月も俺を驚かせてくれよ」という鶴丸の言葉をどう受け取るかにもよると思う。
個人的に鶴丸が天を驚かせたいという感情は、ただ純粋なものだけでなく、自分の生きた証を刻むためであったり、純然たる続く運命のレールへの反骨心から生じたものだったりするものだと私は考えている。
天よりも驚かせたい三日月宗近
この言葉通り受け取ると、天の上位互換が三日月ということになるのだが、鶴丸の天に向ける感情と三日月宗近に向ける感情が私の中で完全に種類が違う。
では、鶴丸三日月宗近に何を思っているのか。
「三日月は山姥切の心配ばかりして大変だなあ」
山姥切と話す三日月を見た後、鶴丸は三日月にそう告げる。
山姥切と三日月の関係性を外から見た場合、本丸の近侍とその前の近侍という関係性が妥当であろう。
だから、以前近侍を務めていた三日月が、近侍として未熟な山姥切を導いているという見立てが生まれてくる。
果たしてそうだろうか。
鶴丸国永が見ていた光景は、そんなものだったのだろうか。
「お主のことも心配しているぞ、鶴丸国永」
三日月にそう言われたときの鶴丸の表情を私はあまりよく覚えていない。
ただ、三日月が何かをしようとしている、何かを知っている、何かを企んでいる。
そのために三日月宗近は山姥切国広を導こうとしている。
鶴丸国永は三日月の何かしらに気付いていて、驚かせてくれよという発言をしたのだと思いたいのだ。
彼を、三日月宗近と同じ平安時代に生まれた刀だと作中で描いた脚本・演出の意味の一つがこれだと思わずにはいられないのだ。
(ただ、期待値が高すぎるのも重々承知である)

話は重複するが、今作で鶴丸国永は三日月同様『ジジイ』であると明言される。
三日月宗近の役割は見守ること、導くこと。
この三日月と同列に並べた鶴丸国永の役割も、やはり見守ることにあったのだと私は思う。
見守る。何を――。
伊達家に縁のあった刀として、伊達政宗の執念の果てを、夢の終わりを。
しかし、見守るだけじゃ鶴丸国永の性に合わない。
物語に自ら介入していき、一歩引いたところで事態を眺める。
その様こそが、鶴丸国永にとって見守ることなのかもしれない。
思えば、前作ではそのようなスタンスを保っていたと記憶している。
それは見守るというよりも、観察しているというニュアンスの方がしっくり来る気がする。
愉快な傍観者は、軽妙で酔狂であっても、戦うことを忘れたことはない。まるで、道化師だ。
鶴丸国永は道化を演じ続けることができるのか。
結果的に言えば、その判断は観客に委ねられた。

倶利伽羅伊達政宗の執念を断ち斬ることができなった。
彼が執念の一部となろうとしたとき、それを止めたのは鶴丸国永だった。
「それはだめだぜ」
特に驚いた様子もなく、鶴丸は大倶利伽羅を庇い、そして執念に取り込まれていった。
今作で、鶴丸国永は伊達家に縁のある刀として明言されているが、
舞台上では、伊達家に縁のある他の三振りと密接に関わっているわけではない。
その彼が、大倶利伽羅の行動を予想していたかのように止めた。
可能性の一つとしてあったのだろう。
これは鶴丸国永だけに言えることではなく、燭台切光忠や太鼓鐘貞宗も予想していたことではあるのだろう。
倶利伽羅が反旗を翻すかもしれない⇔そんなことはしないという可能性をそれぞれが持ち、
燭台切が「そんなことしてはいけない」
太鼓鐘が「そんなことするはずがない」と思う中、
鶴丸は「するかもしれない」の可能性の比重が二振り大きかった。
あるいは、三振りよりも長く在る刀として、視野に余裕があったとも考えられる。
何にせよ、少し離れた場所から物語に介入していた鶴丸国永が、これで一気に物語の中心に引きずり出された。

執念に取り込まれた鶴丸国永は、その白の衣装と銀の髪を、黒に染めて姿を見せた。
そこに鶴丸の意識はなく、執念が鶴丸の体を憑依している状態だった。
ここで、私は疑問に近い感想を抱いた。
なぜ、憑依された鶴丸を真っ黒にしなかったのだろう。真っ黒の方が格好良くない?と。
黒の髪、黒の衣装ではあったが、完全に真っ黒ではなく、白い部分が残っていたのだ。
舞台という時間や空間を始めとした、あらゆるもの限られたエンターテイメントで、このちぐはぐな出で立ちは何を表現したいのか。何かしらの意味はあるのか。
――そう、意味はあったのだ。(と私は思っている)
刀剣男士は黒い鶴丸鶴丸を憑依体とする政宗の執念)と相対する中で、
黒い鶴丸は、『鶴丸国永』として言葉を発したシーンがあった。
「主を転々としたせいか、俺の物語は朧げなんだ」
この時の彼は笑っていた。彼がよく見せていた楽しそうな笑みではない笑みだった。
今作では、小夜左文字のように自分の物語に悩む者や、大倶利伽羅、歌仙兼定のように元の主に対しての想いを抱える者が多い中で、鶴丸は自分の物語に対してそう言ったのだ。
この言葉の中にはどんな感情が込められていたのだろうか。
執念も言い方を替えれば、心の中で生まれた想いが積み重なってできたものだ。
執念に取り込まれた鶴丸はそれを一番近くで感じたのだろうか。
そして、甲冑と自分を比べたのだろうか。
それは鶴丸国永にしか分からない。

自分は朧げな物語で、甲冑に比べたら執着も情念も薄いけれど、それでも伊達家にあった刀として、執念に幕を下ろす。鶴丸はそう言った。
黒い鶴丸の体に向けて、大倶利伽羅と燭台切と太鼓鐘の刃が振り下ろされる。
執念が剥がれた体で、ぼろぼろになりながら鶴丸は上手く行った、と弱々しく笑った。
そう。憑依されたのも含めて彼の作戦だったのだ。
歪んだ歴史を正すための作戦。さて、どこまでが彼の作戦通りだったのだろうか。
彼の言葉、行動すべてが作戦通りだったのかもしれない。
それでも私は、彼のすべてが嘘・偽りだったとは思わない。
「それはだめだぜ」と大倶利伽羅を止めた、あの戦場にはふさわしくない優しげな声。
「俺の物語は朧げなんだ」と笑ってみせた、あのときの声の震え、哀愁を帯びた笑み。
あれらがすべて演技だったとは思えないのだ。
鶴丸国永は嘘と本音を織り交ぜて、愉快に、業とらしく、本物のように喋る。
軽妙で、酔狂で、それでも彼の心の中には戦場がある。
いくら人に近付いたとて、人を真似たとて、彼はどこまでも刀なのだ。
だからこそ、彼は人らしく、楽しもうとしているのかもしれない。すべてを。
道化を演じる鶴丸国永は今日も今日とて楽しそうでなりよりだ。
「時の政府や審神者の傀儡ではないか!」と言ったとき、果たして意識はどちらにあったのだろうか。
漆黒の出で立ちで、型を重んじた丁寧な刀捌きを見せていた彼は確かに笑っていたのだ。
あの笑みが今となってもわたしの頭の中に残り続ける。

「人生には驚きが必要なのさ。予想し得る出来事だけじゃあ、心が先に死んでいく」

復讐の怨念

小夜左文字が抱える物語は、所謂復讐の物語だ。
細川家に流れ着く前の小夜左文字が関わったとされる物語。
彼の持ち主であった男は小夜を使い、復讐を遂げるのだが、
刀剣男士として顕現した小夜の中で復讐という物語は続く。
復讐する相手すら、見えないままに。そんなものはいないと分かっていながら。

今作で彼は思い悩む。
強くなりたいと願った彼の目に写ったのは、伊達家にあった刀たちだ。
小夜左文字は彼らを強いと言った。
人々の想いだとか願いだとか、纏わる伝承、物語を一身に受けながらも、刀剣男士として与えられた器を好しとし、謳歌しているように見えるのだと。
作中で山姥切国広が小夜は小夜だというニュアンスの言葉を彼に投げる。
これは前作で山姥切が“そう”思えるようになったことで、この言葉を自分ではない誰かに投げ掛けていたのは実に感慨深い。
そう。山姥切の言う通り、あくまで、小夜が伊達の刀に見る『強さ』とは、小夜左文字から見た主観だ。
小夜の目指す先が、伊達の刀のような刀剣男士なのか。
小夜は伊達の刀のようにならなければならないのか。
それは不可能に近い。
小夜左文字は小夜文字であり、大倶利伽羅でも、燭台切光忠でも、太鼓鐘貞宗でも、鶴丸国永でもないのだから。
伊達政宗は見果てぬ夢を望んだ。
小夜左文字の伊達の刀たちに見る『強さ』は、伊達政宗の見果てぬ夢と少し似ているなと思った。
ああなりたい、ああはなれないと思いながら、小夜は強さを求めるのだ。

強いとは何なのだろうか。
曰く、強いとはやさしいこと。
曰く、強いとはかなしいこと。
小夜左文字が導き出した答えを私は見ることができない。
それでも、彼が刀剣男士・小夜左文字辿りつく目指すべき強さを探すために、自分と向き合っていた姿を知っている。
修行の先にある、小夜左文字極というかたちで彼はあの本丸に帰ってくるのだろう。

九曜と竹雀のえにし

倶利伽羅、燭台切光忠、太鼓鐘貞宗、鶴丸国永、歌仙兼定、小夜左文字。
この六振りの名を並べられると私が思いつくのは、回想「九曜と竹雀のえにし」だ。
倶利伽羅と歌仙が仲違いをし、どうにか仲直りさせようと他の面子が画策して、何だかんだで二振りの中が深まる回想。
開放条件が中々に厳しい回想なのだが、義伝 暁の独眼竜でもこの回想がベースになっていることは間違いない。
不満というか文句に近い形になってしまうのだが、ゲームのこの回想の重要な部分は何だかんだで二振りの仲が深まる、何だかんだの部分だ。
残念なことにゲームではこの何だかんだの部分が描かれていない。
倶利伽羅、歌仙で描かれる展開をA、燭台切、太鼓鐘、鶴丸、小夜で描かれる展開をBとする。
九曜と竹雀のえにしは、大まかに「発端→勃発→接触→協力→団結→落着→縁故」という流れが提示されている。
発端・勃発で歌仙と大倶利伽羅の衝突、接触・協力でそれを知った刀たちの反応、
団結・真心で歌仙と大倶利伽羅の仲違いを解消しようとする刀たちの行動、
落着・縁故で歌仙と大倶利伽羅の歩み寄りが描かれている。
起承転結で示すなら、発端・勃発→接触・協力→団結・真心→落着・縁故となり、
これがA→B→B→Aという展開で描かれている。
前述した何だかんだの部分とはこの接触・協力→団結・真心でのAのことを指す。
ここが描かれていないが故にBで描かれたことを汲み取って考えるしか無いのだが、
表面的に読むと、「周りに気を遣わせてしまったから歩み寄ろう」になるのだ。
歌仙と大倶利伽羅がそう思うとはあまり考えられないので、
きっと何かがあって、歩み寄る気になったのだろう……と考えていた。

暁の独眼竜に登場する刀剣男士が発表されたとき、ゲームの回想の行間埋めをさせるのか?という不安が頭によぎった。
燃ゆる本能寺では、ゲームの台詞、回想を汲みつつ、舞台『刀剣乱舞』としての物語を描いているように感じたので、原案であるゲームと舞台が完全なる重なりを見せてしまうことに不安を覚えたのだろう。
(個人的に、刀剣乱舞の土台設定はゲーム刀剣乱舞-ONLINE-にあると思っているので)

舞台を観劇すると、やはりそんな不安は杞憂であったと思い知らされた。
暁の独眼竜も刀剣乱舞-ONLINE-を根幹とした舞台『刀剣乱舞』の物語が描かれていたと感じたからだ。
物が語る故、物語。なぞり書きでは物語とは言えない。

歌仙、大倶利伽羅を始めとする細川・伊達家に縁のある六振りは主の命で伊達政宗の最期を遠くから見ることとなる。
伊達政宗細川忠興が紡いだ縁を大切にしていこう。
燭台切は皆にそう語りかけ、その言葉や光景は歌仙や大倶梨伽羅の心にも何かを残したのだろう。
歌仙と大倶利伽羅が酒を酌み交わしている様子は、きっと彼らが出した答えで歩み寄りなのだと私は思っている。

三日月宗近とは「何者」なのか

前作、今作ともに、一歩引いたかたちで物語を見守る存在である三日月宗近
語り部に近い位置にいる彼は、さながら物語を紡ぐ神の視点に一番近い存在に見える。
実際の所、彼の物語の一部であり、彼には彼の物語がある。
今作で彼自身もそれについて言及しているし、それが刀剣男士という存在だ。
山姥切国広は彼に言った。この本丸をどうしたいのか、と。
「俺はただ、この本丸に強くあってほしいだけだ」
こう言った三日月には、前作で見せなかった感情の揺れが見て取れた。
強くあれ。それは彼の言う来るべき時に備えてのことだとして、彼は何を知っているのだろうか。
もしくは、何を見たのだろうか。
彼はどこまで知っていて、どこまで見えているのだろうか。

語り部の構成は、主に三日月にある。
しかし、前作も今作も事の顛末を述べるのは山姥切国広だ。
いつか三日月が語り部でなくなる時、それはこの物語が終わりを迎える時なのであろうか。

オープニング/エンディング

舞台『刀剣乱舞』名物、刀剣男士が歌うオープニングとエンディング。
さて、今作のOPとEDなのだが……記憶が飛んでしまった。
とても格好良くて、本能寺と違った良さをたくさん感じたのだが、忘れてしまった。
歌詞すら覚えていない。とても悲しいことである。
なんか、カッコイイ……とじんわり思ったことだけは覚えている。
こんな心残りを引きずりつつ、舞台『刀剣乱舞』義伝 暁の独眼竜の感想をこれにて幕引きとする。

舞台を生で観劇するのは楽しいなあ。
今回もあまりに思うがままに書いてしまったので、もう少し考えをまとめてから、ライブビューイング臨みたい。

曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 照してぞ行く

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魔鏡

備忘録
記憶違い有り

4月某日、大阪・梅田。梅田芸術劇場
ミュージカル『刀剣乱舞』~三百年の子守唄~ 観劇。
今回で二回目の観劇となる。
kzttol.hatenablog.com
一回目の観劇感想はこちら。
これには記載されていないことや二回目の観劇で感じたことを書いていこうと思う。
(思い出したら書き足していく追記式の予定)

オペラグラスという名の推しカメラ

今回は東京公演会場のAiiAと違い、1階~3階席まである会場だった。
私は3階席からの観劇だったので、「今回は引きで観るぞ。全景観るぞ~」と思っていた。
そう、思っていたのだ。思ってたんだよー!
それでも念のため……と思い、オペラグラスを持って行った。
四年ぶりくらいに舞台にオペラグラスを持っていくな~と呑気に鞄に詰め込んでいた。
引きで観たかったら大人しくオペラグラスを持って行くな。これは教訓である。
オペラグラスは視力が悪くてもド近く観れる魔鏡だ!すげえ!忘れてた!メッチャ観えて緊張した!

目は口ほどに物を言うが、総てを語るわけではない。

倶利伽羅は多くを語らない。
故に言葉の意味を汲み取る時に気を付けないと誤った解釈で物語を進めてしまう。
問題なのは、誤った解釈でも物語を読めてしまうことである。偏に彼が自己発信をしないからに尽きる。
俺一人で十分だ、とはよく言ったものだと思う。
そうは言っても大倶利伽羅は目線や表情で結構語ってるんだよなあ、と思っていた。二回目の観劇までは。
最初は、表情あんまり激しく変化しないんだなという印象だった。
前回でも述べたが、大倶利伽羅に対しては基本的に静のイメージを持っているので、特に違和感を覚えなかった。
しかし、進めば進むほどあれ、と思うようになって、決定的だったのは吾兵との接触だった。
まずは初対面。兵士たちの中に混ざる農民の吾兵。彼らに農民は引っ込んでいろと馬鹿にされ、頭に来た吾兵は彼らを煽り、挙句の果てに殴られそうになるのだが、そこに大倶利伽羅が通りかかるというシーン。
初対面の大倶利伽羅に「アニキ!」と言って、背中に縋りつく吾兵。
私は勝手なイメージでここの大倶利伽羅は凄く嫌そうな顔をしていると思っていたのだが、実際表情は別段変わりなかった。
ちらりと吾兵と周りを見つめるだけで。嘘~!?と思わず叫びたくなった。
次に桶狭間の戦い。前記初対面がこの桶狭間の戦いの直前になるのだが、このシーンはその戦いの最中、吾兵が追い詰められるシーンである。
吾兵の窮地に駆けつけ、どいていろ、と一言。表情に焦りもなく、かと言って面倒そうな表情をしているわけでもなく、ひたすらに目の前の敵を斬ることに集中している、そんな顔。(勿論、吾兵のことは気に掛けていたが表情に大きな揺れはなかった)
そして、桶狭間の戦い姉川の戦いの間。大倶利伽羅榊原康政を襲名して、家康の息子・信康が赤子から少年へと成長した。吾兵と信康に剣術の稽古を付けるようになったシーンである。
ここらへんになってくると、表情も少しずつ感情に乗って動いてくる。
剣術を教えてくれと吾兵にせがまれ、いい加減にしろと言い放つ大倶利伽羅。息を大きく含んだその言葉は決して強い言い方ではなく、ため息に近いもので、表情もあのなぁ、と言った風な少し悩まし気なものだった。
結局何だかんだで二人に剣術を教えることになった榊原こと大倶利伽羅
ここでやっと表情が分かりやすく動く。
そして、吾兵の死。ここも見逃せない。
戦いの痛みとは違う、苦しそうな表情。心が暴れているのかもしれない。
以上、大倶利伽羅の表情編だ。
思ったより表情が動いていなかったことにびっくりしたが、恐らく懐に入れる(彼で言う『慣れ合う』に近いニュアンス※厳密には違う)と他者に対して表情の動きを見せるのだなあと思った。
だからこそ、一部終盤の小さく綻んだあの表情は、慣れ合いではないまた別のものだと私は思っている。
表情があまり変わらないが、恐らく感情は、心は動いていると思う。
戦うのにこの心というものは厄介~みたいなことを言っているくらいだし。
倶利伽羅の感情や心の動きが現れているのが体の動きなのかもしれない。
何となくだが、感情が動いていそうな場面で体が小さくぴくりと反応している気がしたのだ。

『刀剣乱舞』

「戦道ひとり往く 漆黒の竜」「俺は戦い抜く 刀として生き 死ぬために」

前に立つということ

慣れ合うつもりはない、という言葉と戦闘中に戦闘継続困難な味方の前に立つ姿勢。
赤子を抱く青江の肩を押して敵から遠ざけたり、戦う術すら知らない吾平から敵の攻撃を防いだり、検非違使を前に負傷し倒れ込んできた村正と敵の間に入り敵を見据えたり……。
彼が口にする『慣れ合う/慣れ合わない』という言葉には彼なりの意味があるのだと、さらに実感する立ち振舞いだ。
ただ闇雲に周りを拒絶しているわけではないのだ。

ミュージカル『刀剣乱舞』のキャスティング

前作、幕末天狼傳でも思ったのだが挑戦的なキャスティングが輝く。
前作では、芯がしっかりとしている和泉守兼定にキャストの中でも比較的経験の浅い俳優さんをキャスティングし、相棒ポジションの堀川国広を若手俳優の中でも実力者の役者にキャスティングして、成長を期待する。
その意図は実を結んだわけだが、舞台という装置を使った演劇で演者の成長を期待する度胸と勝負と鬼畜っぷりに思わず恐ろしく思ってしまった。
それは今作でもそうで、物吉貞宗という心の動きが分かりやすく激しい刀剣男士を2.5次元舞台の経験がない若手俳優に任せるという勝負、期待値の見積もり。
物吉役の俳優さんのコメントを各所で見ると、何度もプレッシャーに押しつぶされそうになっているのが伺えた。
そんな彼を支えるキャスト、カンパニー、そして彼自身。
一人では絶対に起こらない化学反応が演劇にはあると思う。
ミュージカル『刀剣乱舞』はキャストの化学反応を常に求めているのだなあとしみじみ感じる。

赤と青

二部の話。大倶利伽羅と青江のデュエットについて。
前回も述べたのだが、私にとっては予想外の組み合わせ。
青江は石切丸、大倶利伽羅は物吉と来るとなんとな~く思っていたので。
今回は知っていたため、びっくりすることなくよく観て聴くことができた(と思う)。
もしかしたらこの曲、お互いのこと歌ってるように魅せた曲なのかもしれないな~と感じた二回目のライブ。
青江Aメロ「火傷してるHeartをCool down」「安っぽいヒーローは僕の代名詞だった」
倶利伽羅Aメロ「青い言葉」「期待通りにいかないことばかりじゃBreak down」「こんな結末を用意したのは僕なのか、繰り返しはいらない」
それぞれ断片的に覚えている二振りのAメロなのだが、それぞれが歌っている時の照明が、互いのカラーだった記憶がある。
(青江なら赤、大倶利伽羅なら青)
そしてサビの「ネームレスファイター」
倶利伽羅と青江の共通点と言えば、磨り上げ。大磨上無銘。
無銘、ネームレス、刀剣男士。
無作為に意味を見出すことは簡単だけれど、きちんと考えていきたい。

ミュージカル『刀剣乱舞』~三百年の子守唄~、生での観劇はこれにて見納め。
もっと観たかったなあという想いが強いが、観れて本当によかった。
製作に関わった全ての皆様、誘ってくれた友人たち、本当にありがとうございました。

またいつか、この六振りに会いたいなあ。

行間を読む刀剣乱舞

備忘録
記憶違い有り

3月某日、東京・渋谷。AiiA 2.5 Theater Tokyo。
ミュージカル『刀剣乱舞』~三百年の子守唄~ 観劇。

2015年初頭に始まったゲーム刀剣乱舞。
ミュージカル『刀剣乱舞』はゲームを原案としたメディアミックス展開の一つであり、最新作:三百年の子守唄で三作目となる。
登場する刀剣男士は石切丸、にっかり青江、千子村正、蜻蛉切、大倶利伽羅、物吉貞宗の六振り。
一回の公演につき、六振りの刀剣男士が登場するのもこのミュージカル『刀剣乱舞』の特徴だ。

あらすじ(公式パンフレットより抜粋)

西暦2205年。「歴史修正主義者」による過去への攻撃が始まった。
歴史の改変を防ぐため、時の政府により「審神者(さにわ)」が過去に遣わされた。
審神者によって励起されたのは、刀剣に宿る付喪神「刀剣男士」。
彼らは歴史を守るための戦いへと身を投じていくのであった。
 
――天文11年12月、三河岡崎城付近。
にっかり青江と大倶利伽羅は、遠征から戻る道中、予期せぬ時間遡行軍の襲撃に遭遇し城内へと向かった。
そこでは松平軍と時間遡行軍との乱戦が繰り広げられていた。
松平家の重臣たちが次々と討ち死にしていく中、瀕死の状態にある松平広忠は、その胸に赤子を抱き守っていた。
 
一方、審神者の命で刀剣男士が集められ、石切丸を隊長に、蜻蛉切、物吉貞宗、千子村正という編成が組まれた。
彼らの赴く地は遠征中のにっかり青江と大倶利伽羅のいる三河岡崎城
そこで彼らを待ち受けていたものとは……

今作の感想を一言でまとめると、「刀剣乱舞らしい」の一言に尽きる。
ゲーム刀剣乱舞において、刀剣男士は戦う使命にある。その中で彼らは私たちプレイヤー/審神者に言葉を残していく。
それは刀剣男士から審神者への投げ掛け、刀剣男士の独白、刀剣男士同士の会話等と形は様々。
プレイヤーとして言葉を受け取る場面と、プレイヤー兼審神者として言葉を受け取る場面が存在する。
刀剣男士から発される言葉には意味があると私は考える。
体を持ち、心を持ち、意志を持つ彼らは、人の想いだったり願いだったり、または逸話だったり伝説だったりと、刀とそれを取り巻く人・物・環境・状況によって構成される。
そんな彼らの口から出た言葉には、彼らを彼らたらしめる要素がたくさん詰まっていると信じたいのだ。
重要なのは言葉だけではない。
ただの物でなくなってしまった彼らは、想いを形にする術を持っている。
それは意志を持って行動することであったり、逆に行動しないことであったり、手法は無限に存在する。
刀剣男士という存在を理解するには、彼らの一挙手一投足に注目しないといけないのだ。これがなかなかに困難を極める。
刀剣乱舞という作品に出会って二年経過するが、私が完全に理解できた刀剣男士は一口もいない。
立ち絵、ボイスから得た情報を元に、彼はどうしてこのような発言をしたのか、なぜこのような刀の構え方をしているのか、どうしてこのような表情を浮かべるのか。
この刀剣男士は刀として●●な経緯があるが、発言はしていない、作り手はどこまでを意識しているのだろうか。
枠から外れすぎた解釈をしていないか。
ゲーム刀剣乱舞で表現されている講釈を思考の起点とできているか。
思考に終わりが無い、考えれば考えるほど目が回りそうになる体験を何度も経験した。
また、刀剣男士同士の会話は刀剣男士を理解する上で良い刺激となる。
刀剣男士の独白は勿論のこと、ゲームの性質上刀剣男士と審神者の会話は彼らが一方的に喋っているという形になる。会話の主導権はほぼ彼らにあるのだ。それが一変するのが同権男士同士の会話だ。
二口以上の刀剣男士が言葉を交わして、心をぶつける。
ゲームシステムで言うところの回想や手合わせが該当する。
会話というのは難しい。相手との距離、それぞれの話し方、リズムがあって会話は作られていく。一方的に話す、喋るでは見えない部分も見えてくる。
刀剣乱舞という作品は面白い。ここにおける面白い、というのはゲーム性の話ではない。限定的な情報の元で、作品に対して理解を深めていく。
刀剣乱舞の中心にいる刀剣男士を理解することは、刀剣乱舞への理解にも自ずと繋がる。
それでは、どうやって限定的な情報から理解を深めるのか。
理解の深め方は人それぞれだ。その中で私が取った方法は上記で散々述べた通り――行間を読むことだ。
※勿論これは、言葉を読んだ上での話である。
今作で私が「刀剣乱舞らしい」と感じたのは、今作が行間を読む必要性を如実に問うてきた作品だと感じたからである。
表現法としての「間」が明らかに用意されていたという感覚を得たのだ。

さて、漸く本題に入る。私は、阿津賀志山異聞も幕末天狼傳も作品として非常に好きで、三作品に対して優劣はないと思っている。
それと同時に優劣と好みは違うし、印象もまた違うとも考えている。
阿津賀志山異聞を経て幕末天狼傳を観劇した時、常に新しいことに挑戦していこうとする作品なんだ、と改めて作り手の熱量を感じた。
それは刀剣乱舞への挑戦だけでなく、2.5次元への挑戦、舞台・ミュージカル作品への挑戦――1つへの挑戦じゃ終わってやらないぞというメッセージを作品から受け取った。それは今作、三百年の子守唄でも同様だった。
三百年の子守唄で強く感じた挑戦は主に三つある。①選ばれた6口の刀剣男士③舞台演出②演者の年齢層だ。
③についてはパンフレットで演者さんたちが口を揃えて仰っているので割愛する。①、②を織り交ぜながら感想を進めたいと思う。
今作で選ばれた刀剣男士は、前作・前々作の面々と比べると原作的繋がりが薄く感じる。薄いというより、断片的な繋がりという表現が近しいか。
共通した繋がりを持つ面子の中に、違う色を持つ刀剣男士を投入していた過去二作と比べると、明らかに異色だった。三作目発表の段階で「どんな話になるんだろう」という期待と不安を抱いたのを今でもよく覚えている。
時間が経てば気持ちも少しは整理できるようになり、「この面子なら徳川についてやるのが妥当だろう」という予感と、それでも「徳川と一口に言ってもどこの時代をやるんだ?」という懸念が強くあった。
複雑な想いを抱きながら、それでも時は止まらずに刻まれ続け、タイトル、メインビジュアル、全キャストと役名が発表、そして観劇当日へと至った。



本格的なネタバレ注意

主人公とキーマン

ミュージカル『刀剣乱舞』は主役を明確に口にしない。
座長、役者の立ち位置、インタビューなどと主役を推測できることは可能であるが、「●●が主人公!」と明言されたことはないように記憶している。
誰か一振りの刀剣男士が主人公なのではなく、全員が主役とも取れるが、個人的には、阿津賀志山異聞は加州清光・幕末天狼傳では蜂須賀虎徹が主人公であるように感じた。
ミュージカル『刀剣乱舞』に登場するのは何も刀剣男士だけではない。
歴史上の人物、刀剣男士と相対する時間遡行軍、声だけの登場となるが彼らの主である審神者なども登場する。ここで注目したいのが歴史上の人物だ。ゲーム刀剣乱舞には歴史上の人物が登場することはない。
しかし、刀剣男士が彼らについて口にすることはある。刀剣男士が見た『歴史上の人物』は存在するのだ。
ミュージカル『刀剣乱舞』では、歴史上の人物の存在がかなり重要になってくる。
キーマンとも呼べる存在が歴史上の人物とそれに寄り添う刀剣男士だ。
阿津賀志山異聞では義経と弁慶-今剣と岩融、幕末天狼傳では新撰組-その刀たちが該当する。
では、今回の三百年の子守唄での主役とキーマンは誰なのか。私は、主人公が石切丸・キーマンが徳川家康、物吉貞宗だと思った。

最初からクライマックス~行間で舞台を読め~

物語は石切丸から始まる。先の任務での出来事を記録しようと紙に綴っているシーンだ。言葉は少なく、動きと表情が先の任務での思い出を語る、そんな一幕。
手記を綴る石切丸の前に大倶利伽羅が現れる。静かに現れ、静かに言葉を並べ、静かに去る。それなのに、刻み込まれる存在感。
冒頭の静けさに、私は今作では演者の言葉、表情・舞台の演出だけでなく、舞台上での行間を読んでいかなければならないと切に感じた。
そして、語り部・石切丸の回想と共に物語の幕が上がった。
そう、石切丸はこの三百年の子守唄において主役であり語り部なのだ。

にっかり青江と大倶利伽羅、動き出す物語

あらすじでもあるように、この二振りが遠征中に行方不明になることから物語は動き出す。流石、脇差と打刀というべきか連携に問題は見られない。
にっかり青江はアクの強い刀剣男士という印象を強く持たれがちであるが、その実、冷静に状況判断ができ、自分の務めを着実に全うできる刀剣男士だ、と私は思っている。
刀剣乱舞における脇差の刀剣男士の立ち位置は主にサポート役。青江もそれから外れることはなく、言葉遊びをしつつも、己のやる事・やれる事をしっかり理解した上で周りの状況を常に見据える。
そして、自分への可能性も常に考え続ける刀剣男士だと私は考える。やる事・やれる事の他にやれそうな事への意識も欠かさないのが彼の美点であると私は受け取っている。
一方の大倶利伽羅は、クールで言葉数が少なく、「慣れ合うつもりはない」という言葉を周りに投げることから、連携に不向きな印象を持ちそうになる。
しかし、彼の中での慣れ合うとは何なのだろうか。この言葉は今作で明確な答えが提示されるわけではない。
ところが、表面上の言葉通りの慣れ合う、という言葉で彼を噛み砕いていくと今作では段々と齟齬が生じていく。これは大倶利伽羅だけに言える話ではなく、今作全体にも言えることだ。
遠征先での任務が終了し、本丸に帰投しようとする二振りは異変に気付く。先に反応したのは大倶利伽羅だったが、驚きつつも確信めいた表情をしていたのは青江だったので、この冷静な観察眼が青江の偵察値が高い所以だったら良いなぁと思い、緊迫感のあるシーンなのにニッコリ笑顔になってしまったことをよく覚えている。
異変が起こっているのは岡崎城。駆けつけた二振りの前に立ちはだかる時間遡行軍と彼らに侵略され、次々と人間が死んでいく松平軍。戦いの最中、「●●殿、討死!」という叫びが城内に響き渡る。
私はゲネプロ動画とナタリーさんのゲネプロ記事を読んでいたので、ここで挙げられた武将の名が何を意味するか分かっていた。後に重要になってくる人物たちなのだが、名乗り上げとは逆のパターンで重要性を示すやり方が、前作・前々作と違って面白いと素直に感じた。彼らの役割上、名乗りを上げて戦って死ぬ演出よりも、斬り捨てられて周りの兵たちが声を上げる演出の方が効果的だと思ったのだ。
駆けつけた二振りも時間遡行軍を斬り捨てて行くが、それでも松平軍の劣勢は変わらない。そんな二振りの前に転がり込んできたのが松平広忠とその腕にいる赤子だった。広忠は青江に赤子を託し、死んでゆく。
赤子を手渡されたときに、見せた青江の表情は困惑そのもので、手に握っていた刀をしまわなかったのは、戦場故か困惑故か。どちらの理由も考えられるが、彼の中で赤子を抱くから刃物である刀をしまわなければならないという選択肢が出てこなかったのかな、と考えるとにっかり青江らしいな、と私は受け止めた。
困惑する青江の表情に嫌そうな感情が乗っていなかったのも、凄く頷けた。それにしても、霊とはいえ幼子を斬ったとゲーム内で言及されている青江に赤子を……。ゲネプロ動画で見た時も思ったが、何とも作為的な演出なのだろうか。こういった演出をしてくるミュージカル『刀剣乱舞』に魅力を感じてしまうのだ。
一方で、赤子を託されて困惑しつつも戦う青江に対して、檄を飛ばす大倶利伽羅。毎回確認できたわけではないが、喋るときに相手の方を見ようとする彼の動きにヒヤリとしつつも、近付いてくる敵への牽制は忘れない。何となくではあったが、過去作での三日月や堀川の動きを彷彿とさせた。ただ彼らは喋ってる相手がいても敵から目を逸らさず刀を突きつけていたので、彼らの鋭さと大倶利伽羅の鋭さは違うんだな、とも思った。大倶利伽羅は言葉ではなく、動きや佇まい、目の動きで静かに語り、戦場でもその静けさは継続され、爆発的に苛烈さを見せる。洗練された・研ぎ澄まされた鋭さというより、隠れた中にある鋭さなのかもしれない。
逃げながら戦う防衛戦も二振りでは限界がある。「先に行け」と言う大倶利伽羅。青江はそんなことできないよ、と返すが、すかさず足手まといだと言い放つ大倶利伽羅。ここで記憶が曖昧なのだが、青江は一度赤子の存在を忘れかけていた気がする。「そいつはどうする」と言われて「あ……」と動きが止まる青江が何とも可愛かった。青江はやる事・やれる事がきっちり分かってそつなくこなす刀剣男士なので、このような様を見ると本当に守備範囲外のことをしているんだなあ~~と思わず笑顔に。(天丼)守備範囲外のことでも嫌な顔をしない青江、とっても素敵。(天丼)
逃げる場所も体力もなく、絶体絶命の危機。そして現れる仲間たち。
千子村正と物吉貞宗が先に二振りと合流した。村正は二振りが行方不明になってから顕現された刀剣男士なので、二振りとは初対面になるが、そんなのお構いなしの村正節。踊るように敵を屠る村正の美しく華やかな姿に思わず見惚れてボーっとした覚えがある。
そして石切丸の登場だ。登場する前から分かる強キャラ演出、安心する青江の表情や他の刀剣男士の様子から、石切丸が頼りにされていることが分かる。
六振りが揃った――ここで前作共通で歌われるミュージカルナンバー『刀剣乱舞』。
個性が光る阿津賀志山メンバー、血気盛んな幕末天浪メンバーとはまた違った刀剣乱舞。
恐らく今後も歌われ続けるこの楽曲を聴く度に、ミュージカル『刀剣乱舞』が好きだー!という気持ちになるのだろう。
さて、ここで冒頭~合流までの戦う様子で、心乱されたことが一つ。大倶利伽羅、衣装をよく整える。特に襟元を触ったり正したりという仕草が多かったのだが、敵と相対しているときにもこの仕草をよくする。伊達の刀と括られることが多い大倶利伽羅だが、同じく括られる刀剣男士に比べて、伊達男っぷりが目立つわけではない。しかし、この仕草を見て私は確信した。「この男、伊達家にあった刀だ――」と。

配置が語る意味

合流した六振りの刀剣男士。石切丸を隊長としたこの部隊に課せられる役割は、時間遡行軍によって変えられた歴史を修正することだ。青江と大倶利伽羅が行方不明になった時、本丸では石切丸が審神者に何かを投げ掛けられている。過酷なものとなる、と告げる審神者に対して、「やらせてくれ」と申し出る石切丸。今回の任務は石切丸が自ら買って出て隊長となったのだ。審神者の策略があったかもしれないが、最終的に『選んだ』のは石切丸だ。
変えられた歴史の修正は容易くない。というかほぼ不可能に近い。そんな彼らに一筋の光が差す。青江と大倶利伽羅に託された赤子である。彼は後に徳川家康となる子だ――。生涯家康に寄り添った物吉が嬉々としてそう言った。戦乱の世に平和をもたらす徳川家康は、この時、歴史を正すための希望、ひいては石切丸の、部隊の希望となったのだ。石切丸は隊員に役割を伝える。家康に仕えた重臣に成り、彼を支えることで、『徳川家康』を育てるのだ。と。時間遡行軍によって殺された人間の代わりを刀剣男士が努める。生半可な覚悟ではできないことであるし、当然簡単なことではない。それでもやろう、やらなければと口にする石切丸。ここでミュージカルナンバーが入るのだが(※曲名:瑠璃色の空?)、歌っていないメンバーと配置に思わず息を呑んだ。上手、中央が曖昧だが確かこんな配置だったはず(下図参照)。

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ミュージカルソングを歌っているのは、石切丸、物吉貞宗、蜻蛉切。青江は三振りを眺めているが、険しいものではない。戸惑いと可能性の天秤を量っている最中だったのかもしれない。問題は下手の二振りだ。
まずは村正。石切丸の提案や物吉に対して笑い、我らは刀なのだと言う。それでも我ら刀剣男士はやらねばならないという流れは進めば進むほど、彼の顔から表情が消える。作中において村正は基本的に妖しく愉快に華やかに笑って踊るような存在であったが、このシーンではそれらが徐々にそして消えていき、そしていつしか完全に消え失せていた。戸惑い、理解不能、拒否という感情がだんだん見えなくなっていったのだ。あの時の彼はまさしく刀で物で非人間だったと感じた。
そして、そんな村正を後ろから見つめる大倶利伽羅。初めは石切丸の提案に渋面を作っていた彼だったが、自分以上に村正の異変に気付いたのか、村正をじっと見つめていた。暫くすると舞台上の壁にもたれ掛かって瞳を瞑っていたのだが、村正を見ている彼の姿が忘れられず、私はただ呆然と彼を見つめるしかなかった。
徳川家康の重臣として、竹千代を、家康を支える。石切丸は自分で服部半蔵の役を買って出た。その瞬間の青江の僅かな動き。一瞬だが、ぴくりと動いた気がしたのだ。今作では、服部半蔵という役割が石切丸を駆り立てることになっていくので、思い返してみるとここの青江の反応はあるべくしてあった反応なのだろうな、と。
そして、物吉は忠臣名高い鳥居元忠、蜻蛉切は元主である本多忠勝、青江は徳川四天王筆頭の酒井忠次の役を背負うことになる。ここで、大倶利伽羅と村正は襲名を拒否する。ただ、任務を放棄するわけではなく、遠くから見ているという。そんな彼ら(というより大倶利伽羅か)に対して石切丸が放つ「若い」という言葉。この言葉の意味が明らかになることはない。
しかし、要所要所で石切丸がなぜこんな発言をしたのか、一考の余地となるシーンがいくつか存在する。

回想の演出法

石切丸とにっかり青江といえば、ゲーム刀剣乱舞での回想『神剣までの道』でのやりとりがやはり目を引く。今作では、既にこの会話がなされたものとして表現されていた。回想を既に踏襲しているということで意識の不変、変化、言葉の意図がよく分かるこの手法は妙手だなと感じた。
「知らなかったんだ」と家康もとい竹千代から赤子のぬくもり(命の温かさ)を知る青江。上手にいてミュージカルナンバーを歌わなかった青江だが、大倶利伽羅や村正と違い、酒井忠次の襲名に対して非を唱えなかった。なぜなのか。その答えを彼が口にすることは無いが、己の可能性を信じたのではないかと私は考えている。
神剣回想でもあるように、彼は成れない自分のこともきちんと考える刀剣男士だ。どうして神剣になれないのか。悩みというより、模索に近いものなのかもしれない。にっかり青江は自分のことをよく知りながらも、未知の自分を模索し続ける刀剣男士だとすると、家康を支えることはただ刀剣男士の使命を全うするという意味だけでなく、何か別の意味もあって、酒井忠次の名を受けたのだと思いたい。例えば、自分が知らなかったぬくもりがどうなっていくのか、自分がどう関わっていけるのか。そう思いながら、家康とともに過ごしていたらいいなあという希望を抱く。

倶利伽羅という刀剣男士

家臣の名を襲名しなかった大倶利伽羅は、戦前に一人の男と出会う。その名を吾兵。農民の出の男だ。戦に怯える男に大倶利伽羅は「帰れ」「お前みたいな奴はすぐ死ぬ」と言う。吾兵にも帰れない理由があり、戦わなければならない理由がある。
では、大倶利伽羅の戦う意味とは何なのだろうか。吾兵は大倶利伽羅に問う。「戦うのが怖くないのか」と。吾兵の問いに対し、分からないと返す大倶利伽羅を見て、彼の『馴れ合うつもりは無い』という言葉を今作ではどのように解釈したのかが何となく想像できた。
この時点で大倶利伽羅は、己が欠けない限り無くならないものしか抱えていないのだ。自己責任、自己完結の究極の形だと私は思う。
戦が始まると、大倶利伽羅は戦場をひとりで駆ける。そして、彼はこの戦場で吾兵の命を救うこととなる。人というものは恐ろしく簡単に縁を結べてしまうことを大倶利伽羅は知りながら、吾兵の命を救ったのだろう。
戦が終わると、大倶利伽羅は何気なく「こんなものか」と口にする。これに反応したのが石切丸だった。
戦で失われた命に敵味方など関係ない。神社に訪れる生きとし生ける人々の願いや想いを一心に受け止めていた石切丸にはどんな命も平等に重く、価値があった。石切丸の中で生命は尊く、重いものであるからこそ、大倶利伽羅の言葉が命を軽んじているように聞こえた。
馴れ合うつもりは無いと襲名を許否した大倶利伽羅を石切丸は「若い」と笑った。
それは心からの笑いではなく、侮蔑に近い印象を受けたが、笑える余裕があった。しかし、今度は受け流せなかった。命が重いことは彼にとって当たり前で、軽んじられることがあってはならないのだ。
しかも自分と同じく命を屠れてしまう刀という存在、刀剣男士という存在が命を軽んじることが許せなかった。だから石切丸は告げる。大倶利伽羅の剣を受けて「軽い」と。
石切丸にとってこの時、大倶利伽羅の剣は確かに軽かったのだ。
松平元康にも子ができる。名を松平信康。幼いながらに信康は武力ではなく、何か他の形で父に貢献できないかと考える。その時出会うのが、農民の出である吾兵という男だ。
畑仕事でぼろぼろになった吾兵の手が信康の心を動かす。戦で家族を失い、力を欲する吾兵と戦の道ではなく別の道を探す信康はここで交わる。
吾兵は再三大倶利伽羅に稽古を付けて欲しいと頼み込むのだが、大倶利伽羅は断り続ける。
しかし、吾兵だけでなく、信康も頭を下げ、稽古を付けて欲しいと言うのだ。これに対する大倶利伽羅の答えは是。跪いて、分かりました、と答えるのだ。
以降、大倶利伽羅は、榊原康政の名を背負うこととなる。(正確に言うと私の中で襲名の場面の記憶が曖昧)歴史上の人物に対して、跪いて、適した言葉を使う大倶利伽羅は、頭の中に厳然として居たので、舞台で拝めるなんて……とワケの分からない感動を覚えたシーンである。(なのに記憶が曖昧)
壊された歴史が少しずつ修正されていく。これに気付かない時間遡行軍ではなかった。元康(家康)や信康の命を狙う時間遡行軍に刃を向けるは、大倶利伽羅。しかし敵の数は多く、捌き切れない。敵の刃が信康へと向かう。大倶利伽羅はその刃に気付くも、敵を振り払えない。絶体絶命のその時、信康の前に立ったのは吾兵だった。信康を庇い、身を貫かれた。信康の腕の中で命の灯が消えていく吾兵。駆けつける他の刀剣男士。自分の胸を掴み、荒く呼吸し、死に行く吾兵から目を逸らす大倶利伽羅。大倶利伽羅の調子が乱れているのは見るも明らかだったが、静かな彼が激しく息を乱している姿は今でも忘れられない。大倶利伽羅の動揺をこうやって表現するのか、と私の胸に深く刻まれた。そして、「だから慣れ合いたくなかった」大倶利伽羅はそう言って、去って行ったのだ。
刀剣男士は人間のように汗を流したり、息を切らしたりしない。ミュージカル『刀剣乱舞』阿津賀志山異聞にて役者が演出家から受けた指示だそうだ。演出家は処女作から最新作まで同じ人物が努めている。であれば、大倶利伽羅の動揺での息切れは意味のある演出なのだろう、と私は判断した。(※今作において、役者のキャパシティ上息切れしているシーンも存在する)
吾兵の死は家康、信康そして刀剣男士に大きな影響を与えた。石切丸は服部半蔵と成ってから、失った命を弔うための墓を作り続けているという。吾兵の墓もまた彼の手によって作られた。吾兵の死後、大倶利伽羅と石切丸は再び刃を交えることになる。一度目の衝突と違い、きっかけとなる言葉などなく、何も言わずに刀を構えるふたりがそこにはいた。大倶利伽羅の剣を受けた石切丸は、「重くなったね」と言うのだ。命を失う重さを知った剣だと、石切丸が暗に言っているような気がした。
さて、実際の所、大倶利伽羅の剣の重さは実際に変化したのだろうか。この重さに対して厳格な答えは存在しないと思う。ただ、石切丸は軽いという印象から重いという印象を抱いた。それは石切丸自身も声に出しているように、石切丸の感覚として間違いはないのだと思う。では、大倶利伽羅本人はどうなのだろうか。これは完全に私の考えであるが、彼の中で命に重い/軽いという概念はないのだと思う。慣れ合うつもりはないと距離を置いた大倶利伽羅が、吾兵と出会い、榊原の名を背負い、吾兵や信康の稽古を付けるようになり、そして目の前で吾兵が死んだ時に、「だから慣れ合いたくなかった」と言うのだ。彼の中で慣れ合うとは誰かを内に入れてしまうことを意味するのではないだろうか。想いも願いも信念もすべて受け止めなくてはならない。大倶利伽羅は自分の死に場所は自分で決めるとゲームで口にする。これは自分のやるべき事とやれる事がきちんと分かっていて、納得しているから出てくる言葉だと私は受け取っている。彼は自分の死に対してもきちんと理解して納得してから死にたいのだ。何にせよ彼には自分の中で理解と納得が必要なのだ。だから、自分のキャパシティがオーバーしてしまうことはやりたくない。自分がやれる事だと理解できないし、やるべき事だと納得できないからだ。自分が自分であることをよく踏まえているからこそ、大倶利伽羅という存在を揺らがせかねない要因を内部に入れ込みたくないのだ。大倶利伽羅は未熟、未完成な存在なのではない。大倶利伽羅は究極の自己完結という形で完成されている存在なのだ。石切丸は、大倶利伽羅の排他的様子を『若い』と表現し、頑なに何も抱え込まずに奮う剣を『軽い』と表現した。石切丸からしてみれば、今回の任務は難しいものかもしれないが、やろうと自ら挑戦したものなのだから、一歩踏み出そうともせず、挑戦もしない大倶利伽羅に対して少しだけ憤りを覚えていたのかもしれない。向き、不向きがあると理解しつつも、感情的な部分は石切丸にもあったのだと思う。あつかしやま異聞にて、加州清光と心を交差させた石切丸だからこそ、心の動きは必ずどのシーンにも埋め込まれていると思いたいのだ。
倶利伽羅にとって、自分を揺らがせかねない要因、それは自分以外の存在だ。しかし、大倶利伽羅は受け入れてしまう。吾兵、家康、信康の存在を。吾兵ひとりなら突っぱねることができた。しかし、家康・信康まで跳ね除けることはできなかった。『徳川家康』を支えることは部隊に与えられた任務で使命だったからだ。やれない事と理解しつつも、やるべき事だと納得してしまったのだ。大倶利伽羅は初めからこの選択の間違いには気付いていたようには思う。いつかその間違いに自分の心が追い立てられることも、分かっていたと思う。「だから慣れ合いたくなかった」心と体を持つと矛盾が生まれると阿津賀志山異聞で加州清光が言った。心というのは面倒だと大倶利伽羅は言った。それでも、心を捨てたいとは言わなかった。大倶利伽羅は分かっているのだ。心も体も捨てることはできない。大倶利伽羅はすべて承知の上であの光景を目にしたのだろうか。分かっていたのに、激しい動悸に胸を押えて苦しんだのだろうか。あのシーンを思い出す度に、彼が未完成な存在だったらあれだけ苦しむことはなかったろうに、と思ってしまう。
吾兵の死後、石切丸は吾兵の墓を作る。青江から石切丸が弔いとしてすべての命の墓を作っていること、青江から見た服部半蔵として名を背負った刀剣男士・石切丸が「すべての戦争を無くすこと」を目指しているのかもしれないと聞かされる。大倶利伽羅は墓の前に立つと、懐から白い花を取り出す。(何の花なんだろう)しかし、その花が供えられる事はなかった。まだその時ではない、平和になった時にまた来ると言うのだ。服部半蔵を名乗るものの目指す地を榊原信康として名を背負う刀剣男士・大倶利伽羅として見てみたくなった、と言っているように思えた。歴史上の人物としての想いではなく、刀剣男士としてだけの想いでもない、『家臣として徳川家康を支える』という任務で生まれた新たな想いだと思った。だから、吾兵の墓に花を添えたのは榊原康政として大倶利伽羅が役割を全うした時だったらいいな、と思った。

石切丸という存在は万能ではない

史実では、家康が太平の世を築く前に起こった出来事がたくさんあった。息子、信康の死もその中の一つだった。吾兵の死を目の当たりにした信康は戦の無意味さを痛感する。衝突する家康と信康。一方で、刀剣男士たちは石切丸が信康をどう扱うのだろうと気に掛けていた。信康の死因は諸説存在し、結局のところよく分かっていないとされているらしい。家康に仕えた本多忠勝を元主とする蜻蛉切や家康に寄り添い続けた物吉貞宗ですらよく分かっていないのだと。それでも、時計の針が止まることはなく、刻一刻と信康の死の時へと進み続ける。
石切丸は言った。信康には死んでもらわなくてはならない、と。信康を手に掛けるのは服部半蔵である自分である、と。物吉貞宗は理由が無くて人が殺せるのかと叫ぶ。それに対する石切丸の答えは、理由が有ろうと無かろうと人の命を奪って良い理由にはならない、だった。石切丸ならそう答えるよなあというのが正直な感想だ。何があろうと人の命を奪って良い理由にはならない、それでも奪わなくてはならない、自分がやるしかない。後述しているが、青江は何となく見抜いていたんだろうと思う。石切丸が服部半蔵を名乗り出たその時から。
石切丸は理由も無く信康を殺すことに異を唱える物吉貞宗に、見込み違いだったかなと言っていた。(気がする)物吉を家康や信康の側に配置させたのは本人の希望もあったが、石切丸だ。石切丸は物吉に『何』を見込んだのか。家康と共にあった刀として、家康の一生を重んじることだったのだろうか。信康を殺さないとは歴史の流れに反してしまう。それは刀剣男士の使命に反すことであり、そして歴史上の人物の生きた証を踏みにじることと同義だ。徳川家康という人物によって運命を定められた物吉貞宗という刀(霊剣)は、何があっても徳川家康の運命を捻じ曲げることはない、と石切丸は思ったのかもしれない。だからこそ、物吉が歴史とは違う別の道を提示したことが石切丸にとっての決意が固まったのかもしれない、と私は思う。石切丸は自分の可能性を信じて隊長の任を受け、この任務に挑んだ。そして、物吉の在り方に期待をした。しかし同時に、物吉が寄り添う人間に己の心ごと寄せてしまう可能性を危惧した。この任務が始まる際、任務の要は物吉にある、と石切丸自身が言った。物吉が揺いでしまうことは任務の失敗を意味すると暗に言っていたのだ。刀剣男士としてだけではなく、服部半蔵として、徳川家康を支える『者』として石切丸は刀を手に取る。徳川信康の命を終わらせるために。分かち合うことはできる、と青江は石切丸を追う。それに続いたのが大倶利伽羅。物吉も刀剣男士として行かなければならない、と駆り立てられ一歩踏み出すと、村正がそれを止めるのだ。(メッチャ心に響くことを言っていたので思い出せないのが悔しい)このようなことは妖刀である自分に任せておけばいいと、村正は言うのだ。そんな村正の隣に立つのは、同じく刀派・村正の蜻蛉切だ。村正はお前だけではない、妖刀伝説をお前一人で背負わせない。蜻蛉切の言葉は流石村正の唯一の理解者と言ったところだった。
石切丸が先陣を駆け、皆がそれに続く。六振りの刀剣男士と六人の家臣が『徳川信康』の命が終わるときを体と心に刻むことになる。父のようにはなれないと、己の命に終わりを与えてくれと信康は告げる。刀を手にした石切丸/服部半蔵は信康に刃を振り下ろす――ことができなかった。阿津賀志山で加州清光と衝突し、戦があまり好きではないと言った彼が、命の重さを知っている彼が、生ける人々の願いや祈りを見てきた彼は、信康を殺すことができなかった。命の重さを知っているだけではない。幼い頃から家康や信康を支えた彼は、ここで命の重さを理解したのかもしれないなと何気なく感じた。しかし、石切丸が信康を殺さなかったことで、歴史が歪もうとしている。そこに現れたのは、時間遡行軍ではなく、検非違使だった。『正しい歴史』を守る存在。歴史修正主義者とも刀剣男士とも違う第三勢力だ。検非違使は時間遡行軍だけでなく、刀剣男士、そして正しい歴史から外れた人間にも襲い掛かる。信康もその標的の一人だった。信康を刺し貫く検非違使に、石切丸は怒りを露にする。いや、あれは怒りだったんだろうか……憎悪、憤怒、何にせよ阿津賀志山異聞から続いた石切丸が見せる初めての感情だったように思えた。

石切丸の手記

家康の死を見届けた一行は、任務を終え、本丸へ戻る。そして物語は冒頭の石切丸へ。手記を手にする石切丸の前に、青江が現れる。石切丸は手記に描いた青江の似顔絵を見せる。その絵を見てひとしきり楽しそうに笑った青江は石切丸に「一緒に笑うことくらいはできる」と言うのだ。任務中、青江は常に石切丸を意識していた。石切丸の心の揺れに一番敏感だったのは、石切丸本人より青江だったように思う。今話せるか、と青江は何度も石切丸への接触を試みるが、そのたびにやんわりと断られていた。隊長だからと言って背負わなくてもよいと青江は思うのだが、それでも石切丸は背負ってしまう。それは石切丸の刀としての在り方に起因するものと青江は分かっていたので、無理をしないようにと配慮するのだが、その配慮が実を結ぶことはなかった。だから青江は一緒に背負うことではなく、共にあることを選んだのだと私は思った。自分のやれる事とやるべき事と自分の可能性をよく吟味した上での選択だとしても、強く美しい選択だと思った。誰かに寄りそうという選択が出てくるのは脇差らしいとも思った。思い返してみると、青江は大倶利伽羅と遠征に向かっている時からそのようなきらいがあったようにも思える。(私の記憶違いでなければ)「君を一人にはできないよ」「君の望む形にしてあげられなくてごめんね」と口にしていた気がする。素敵だな、青江。
石切丸の手記にはまだ絵があった。大倶利伽羅の似顔絵だった。青江は「それを見た大倶利伽羅の顔が目に浮かぶよ」と小さく笑う。そして、青江も石切丸もその場を離れる。手記を残して。ぽつんと残された手記を誰かが手にした――誰かではない、大倶利伽羅だ。ぱらぱらとページを捲ると、あるページで手を止める。きっと自分の絵を見つけたのだろうと、私も恐らく多くの観客が思っただろう。どんな反応をするんだろうと大倶利伽羅をじっと見ると、大倶利伽羅は小さく静かに、それでも確かに笑った。誰に見られることもなく、ひとりで。
石切丸は途中で手記に書き残し、破って捨てた部分があった。それは石切丸が悩みを見せた部分だった。石切丸は手記を書き終える自信がないと言った。彼は恐らく任務すべてを書き記したいのではなく、楽しい思い出を、誰かに読み聞かせたときに子守唄になるような手記にしたかったのだろうと私は受け取った。辛く厳しく難しい任務ではあったが、それだけではなかったと、石切丸は伝えたかったのだ。穏やかな笑い声と柔らかい表情を浮かべて笑う大倶利伽羅を見て、彼にとってもこの任務が苦しいだけのものではなかったのだ、と安堵したのをよく覚えている。

村正ファミリー

これを機に家康の認識を改めたらどうだ、と物吉や蜻蛉切に言われる千子村正。徳川にあだなす妖刀と云われた彼は、今回の任務に対して分かり易く難色を示していた。彼の在り方(物語)が彼をそうさせるのだ。村正の妖刀伝説を良い意味でも悪い意味でも重んじる彼は、これまた良い意味でも悪い意味でも人からも刀からも浮いた。人だとか刀だとか言う以前に『非人間』であると強く感じた。生で人が演じているものに対してここまで、人外な雰囲気を感じたのは初めてだったので、とても驚いたのをよく覚えている。周りから一線引かれる村正は、また村正自身も周りから一線引く傾向がある。その線を超えるのが同じ刀派・村正の蜻蛉切だ。三百年の子守唄で、千子村正は顕現から始まる。華やかで艶やかで妖しい彼、非人間である彼、妖刀である彼――そんな村正の理解者なのが蜻蛉切だと言う。ただ、手を焼くだけではなく、隣に並び立つ存在。村正伝説をお前だけには背負わせない、と村正に告げる蜻蛉切と、蜻蛉切を村正ファミリーと呼ぶ千子村正。刀剣乱舞では同じ刀派の刀剣男士が奇妙な縁で繋がっている。それは人間で言うところの兄弟らしいものなのだが、人間ではない彼らが何をもって血縁・兄弟とするのか。蜻蛉切と村正もまた、奇妙な縁で繋がっている。一見全く正反対なのに、似ている部分を見つけると微笑ましくなってしまう。この二振りをもっと見てみたいなぁと思う反面、彼らは『村正』以上でも以下でもない関係性が美しいのかなぁとも思った。
徳川の人間と必要以上に関わることを避けていた村正だったが、井伊直政を襲名する。彼の中でも心の動きがあったのか、それとも状況が状況だったのか。何事も愉快痛快な素振りを見せる村正だが、それは自分にペースや場の主導権がある時だけで、主導権が自分に無いときは酷く普遍的だ。静けさを嫌うわけではないが、変な間を苦手とするのかな、とも思った。青江とのやり取りが印象的で、場の支配権が誰でも合わせられる青江と対照的だと感じた。
自分にできる事とできない事を理解していて、できない事は己を揺らがせかねないのでなるべく関与したくない。個人的に今作で描かれた千子村正と大倶利伽羅は似ている部分があるのだな、と思った。似ているからと言って同じわけではない。村正も大倶利伽羅も周りを見ることができる刀ではあるが、村正は自分のペースを自分で掴みに行き、主導権を奪取して、自分から周りとの線引きをする。大倶利伽羅は最初に線引きを行って、己と他を分けて遠ざける。やり方が動的・静的ではあるが、似ているなと何となく感じた。直感的に感じ取った部分でもあるので、もう少し深めて生きたい考え方でもある。

LIVE!LIVE!LIVE!

さて、そろそろ何を吐き出して何を吐き出していないか分からなくなってきた。ここで二部について振り返ろうと思う。二部、ライブ、現代の戦い。戦だ戦だ、ペンライトを振れ!
いや~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~最高!!!!!最高だよ~~!!!!一部が2時間弱行われたのもあいまって、あっという間だった。二部オープニング曲で物吉-大倶利伽羅、石切丸-青江、蜻蛉切-村正のパートがあって、成程この組み合わせねとインプットしていたら、ウワ~~~~!!!!大倶利伽羅とにっかり青江のデュエットだ~~~!!!!ウワ~~~~赤と青の組み合わせ~~~信頼できるカラー配置~~~~!!!!こんなの暴力だ!!!!刀ミュの配置センスが今作でも光っていた!イエ~~イ!
衣装は物吉のハットが個人的には凄く良くて……。幕末の時にも味わったイケメン+ハットの組み合わせ。う~~ん顔が良い!
そういえば蜻蛉切のファンサを間近で見たのだが、人を殺す気のファンサだった。蜻蛉切がファンサする。死ぬ。凄い。
二部はもう言語化不能なので、このへんでやめておこう。どうせ同じ話しかしないし、ね!

最後に今作、三百年の子守唄を観劇して六振りの刀剣男士について思ったところを簡潔に。

石切丸

やっぱり主人公。阿津賀志山、真剣乱舞祭を踏まえた石切丸。彼を完成された存在ととらえるか、彼自身も悩みながら進んでいく存在ととらえるか、それは観劇者次第なのだが、私は後者だと良いなと強く思った。彼にも分からないことがあって、できないことがあって、それでもやらなきゃいけない。そんな葛藤が見れて良かった。想像以上に抱え込むタイプなんだなあとも思ったので、加持祈祷はもしかしたらガス抜きの役割もあるのかなと。(不敬)動きのキレが増していて、役者さんの成長をビシバシ感じた。この成長が見れるのも続投キャストならではだなあ、と。今作を見て、非常に阿津賀志山異聞を見返したくなった。うたかたの子守唄って曲があるじゃん?ねえ、石切丸さん。

にっかり青江

『にっかり青江』がそこにいた!脇差ならではのサポートっぷりに加え、彼自身の在り方・考えについても悩みながらも前向きに捉えて進んでいく。この前向きさ・挑戦が彼なりの刀のとしての経験と刀剣男士としての体験の噛み違いを埋めていく手段だったのかなと思った。白装束という独特の衣装を上手く使いこなしていて、美しくカッコよかった。そう、青江はカッコイイんだ!

千子村正

非人間。物事の本質を捉えるのに長けているが、己の本質に忠実な刀剣男士。華やかで美しく妖しく可愛くカッコイイ。顕現ソロステージ、全刀剣男士分見たい。
物であり者であるのが刀剣男士というモノ、と私は言い続けているのだが、それに属さない妖怪に似た何かを持つ刀剣男士も存在すると思っている。膝丸、髭切、小烏丸に感じるものなのだが、千子村正も私にとってその部類なのかなと思った。う~~ん非人間。

蜻蛉切

質朴で誠実、千子村正唯一の理解者。公式の紹介文に負けない漢っぷり! 元主、本多忠勝に対する想い、「あの人が歴史に残らないのは嫌だ」という想い、自分も村正だと妖刀村正を体言しようとする千子村正に告げる想い。いろんな想いがあの体と名前に詰まっているんだなとしみじみ思った。大倶利伽羅に対して「千子村正を知ってほしい」と告げた際に、大倶利伽羅は知る必要はないと遠ざかったが、そこで出た言葉が「任務に関わってくるかもしれない」だったのが上手いな、と個人的に印象深かった。武人だよなぁ。人ではないのだけれど。
二部、人の心臓を何度か止める、すごい。チューできるくらいまで顔を近付けてくる、すごい。チューされてまうで!

物吉貞宗

ダークホース。キーマン・徳川家康に寄り添う刀。彼が何をもって『幸運』『幸せ』というのか。徳川家康がいてこその刀・物吉貞宗がいて、そこから生まれた物語や伝承、逸話が刀剣男士『物吉貞宗』を形作った。それは彼に刻まれた呪いのようなもの(物吉は肯定的に受け止めている)だと私は思っていたのだが、呪いとはまた違う別の何かがあるのかもしれないという可能性に気付かされた。極や修行というゲームシステムが彼に実装された時、彼にもたらされる変化なんてものがあるのか?と常々首を傾げていたのだが、俄然楽しみになったし、私も考えていきたいと思った。

倶利伽羅

ありがとうございました。斬るのはさることながら、足運びにも重きを置いていた殺陣が印象的で大好き。彼の持つ静けさが要所要所で最大限に発揮されていて魅了の嵐。
本当にありがとうございました。ちょうかっこいい……。

今回観劇したのは東京公演。次が大阪公演観劇で三百年の子守唄ラスト観劇となる。次の観劇に備えて綴った感想文だったのだが、まさかこんなに長くなるとは……。まだまだアウトプットし足りない感想が体中に溢れていて、三百年の子守唄をまだまだまだ生で観たいよ!という気持ちがかなり強い。ミュージカル『刀剣乱舞』~三百年の子守唄~を作り上げてくださった皆様、ありがとうございました。生のお芝居は日に日に変化するので、次の公演までにまた進化してるんだろうなぁ、と。次回観劇の私は何を思うのか、非常に楽しみである。
ミュージカル『刀剣乱舞』~三百年の子守唄~ずっとやっててほしい。終わらないで~!(終わってないよ~!)

以上

Freesia

某日晩御飯を食べながら機動戦士ガンダム鉄血のオルフェンズを視聴。

第40話「燃ゆる太陽に照らされて」

前話39話やエンディングを見て、ああ……と思ったことが形になった回だった。鉄血に関してはストーリーが終わりを迎えてからまた一から観直して考えたい部分が多い。W、00に続き久々にドップリ観ているガンダム。感想はまたいずれ、気が向いた時に。
でもこれだけは。オルガがまだ涙を流せてよかった。まだ、涙を流すことができるのだ。切にそう思った。願わくば、ずっとそうであってほしい。しかし永遠などないのだ。生きている限り。

人はなぜ死に涙するのか。

哀しいからなのか、虚しいからなのか。
歳を重ねるたびに涙腺が弱くなったと感じるときがある。驚きなのが、予想し得る出来事を受けて泣くことが増えたことだ。突発的な衝撃で涙するわけではないのだ。しかし、涙の理由はよく分からない。そもそもなぜ人は泣くのだろうか。玉ねぎを切っているときに流れる涙と感情の振り子が振り切れたときに流れる涙はどう違うのだろうか。きっと理論で解決される命題ではないのだろう。理屈じゃ語れないのが感情であり、心なのだから。涙の成分は、悲しいだとか嬉しいだとか悔しいだとか一つの形容詞に収まるものではないのだ。

フリージアは花の色によって、花言葉が変わってくる。まるで心のようだ。

オルガ・イツカの涙に、祈りを。
兄と慕った男が、死を以って彼の首を絞める亡霊にならないことを、ただ願うばかりである。
紫のフリージアを添えて。

2017年

 言霊というものがあるらしい。声に乗せた言葉が、何かしらに影響を与えるとか与えないとか。信仰心は個人に委ねられるものであるから、影響の有無に関する論議は割愛する。

わたしが『私』について述べることで、私(わたし)に影響があればいい。

 今まで内々で立てた目標がある。いくつ達成できたのか/できなかったのか。それすらも分からない。立てた目標を頭の中だけに留めておくからだ。このことに気付くのに二十数年。遅すぎる気付きである。
 などと気付きを得て突然思い立ち、目標を書く。2017年。もう20日も経過している今年の目標だ。高過ぎず、継続できる目標だ。
 以下、2017年7つの目標(順不同)である。

1.日常の記録を付ける。

 ツイッターやインスタグラム、タンブラーとは違う、私が見て聞いて感じて考えるものを書き込む何かを始める。当ブログがそれに当たる。スケジュール帳に日記を書き込むという挑戦を去年に行ったのだが、全くやらずに断念。私にはネットのSNSの方が合っているのかもしれない。本来の使い方とは違うかもしれないが、そんな風にブログを使って行きたい。週に1度は何かしらを書き込むことを目標にする。

2.体調を管理する。

 学生の頃から一人暮らしをしており、社会人となった今も一人暮らしをしている。生活習慣はむしろ良くなったはずなのに、自身の体調が管理できなくなった。熱が一晩では下がりにくくなった。一日五時間以上は睡眠を取るように心掛ける。

3.アウトプット意識を強く持つ。

 去年はインプットする機会に非常に恵まれた。インプットすることで、脳で新たな世界構築が成されるのだが、実際に書き出してみなければ世界は創造されない。机上の空論止まり、廃棄物にも成らない『何か』を脳の外の世界に出して行く。筆を取れ。

4.痩せる。

 痩せろ。まずはこれまで通り体重を測り続けろ。夜食は絶対取るな。

5.勉強する。

 漠然とした目標である。まず、何を勉強するかを決めよ。TOEICの場合、最高得点を維持できるようになるまで行けるのが望ましいが、今年中には無理か。

6.貯金する。

 今月から始めた貯金を維持する。また、ネットバンクについても知ること。

7.読書をする。

 2016年は読書量がめっきり減った一年だった。未読の本も積まれてきている。1週間に1冊を目標に読んでいこう。

8.ツイッターを開く癖を止める。

暇があると無意識に開くだけに留まらず、スマートフォンを触るときにはほぼ開いてしまう癖。ツイッターのデータ通信量が馬鹿になっていなかったので、きちんと改めよう。現状ではソーシャルゲーム1つより多いことをよく認識すべし。